澪から幸へ

髙田郁さんの小説からは、江戸時代の下町人情にほっとさせられる情景が浮かんできて、それが好きであれこれ読んできましたが、最近出版された「あきない世傳金と銀」、、、今どきの社会変化に合わせてか?主人公のキャラクターが変ったなあと、そして少し前の「みをつくし料理帖」シリーズ全10巻から一つの時代が去っていったようなさみしさを感じました。

みをつくし料理帖は、澪という女の子が厳しい修行に耐え、料理人として成長していく物語で、料理人という専門職が主人公だったのですが、「あきない世傳金と銀」は、商家で女衆として奉公するなかで、番頭治兵衛に認められ、商いに心開かれていく、幸の物語。商いは詐なのか生涯をかける道なのか。昨今の格差社会に否応なく考えさせられるお金のテーマです。商道も、一つの道を見据え極める、道ですが、料理道とは異なる、テーマの現在性を感じています。

澪は、水害で親を亡くし天涯孤独となり料理屋に奉公したのですが、その生い立ちと立ち直りは、震災など日本国内に続いた天災からやはり立ち直って来られた方々への応援歌として重なりました。今度の、幸は、学者の父と兄を病で亡くし、母子生活の経済的困窮の末、呉服商に奉公することになった身の上で、さらにさらに最近の貧困家庭を思わせる設定です。

さて、世傳とは、代々にわたって伝わっていく、という意味で、小説では幸の商道とその行く末への広がりへの願いがこもっているそうです。「買う幸い、売っての幸せ」の実現目指し、逞しく歩んでいく幸に何かを投影して、私、またこのシリーズも読み進みそうですが。今の所、何かを失なった感が尾を引いています。何だろう?

みなさんぜひお読みください。

研究7 オーラル・ヒストリーと社会

先日の中学生対象の教科書、「イギリスの歴史」では、生徒にオーラル・ヒストリーを促す質問事項を考えさせ、物語としての歴史を理解できるように構成されていました。

オーラル・ヒストリーは、御厨1) によると、「公人の、専門家による、万人のための口述記録」だと言います。日本の古いタイプの公職経験者は「言わず語らず」を伝統としてきましたが、イギリスでは、有名な政治家は回顧録を書いてはじめて職務を終えるとされ、将来歴史が掘り起こされ判断される際に、その記録が功を奏するのだそうです。またアメリカには、組織の歴史を書くパブリック・ヒストリアンという範疇があり、個人がずっと一つの会社、一つの組織にいるということが無いアメリカ社会の組織において、ヒストリーをストックしておく機能となっているそうです。こちらは訴訟社会ならではらしいですが。

日本では、むしろ無名の人々の聞き書きによって、江戸の暮らしや明治の暮らしについて、市井の人々の記録が蓄積されてきたそうです。それでも、高度成長が停滞をみせ右肩上がりの経済ばかりではない、となった時、今までは何だったのかと過去に関心が向き「言わぬが花」あるいは「いわないことへの価値」を抜けていくことになりました。新聞や雑誌の発達にも後押しされたようです。また、昭和も30年も経てば昔話をするように変化が生じ、高度成長期にはじめて戦前のことが語られるようにもなったそうで、語りとして表現されるには時間の経過が必要なことがわかります。

そもそも、オーラル・ヒストリーは、御厨氏の定義よりもずっと以前に、無文字社会において、口頭伝承で伝わっている世界を記録する方法として生まれてきました。文化人類学者はテープレコーダーを持ってあらゆる部族の生活を見聞きして記録を取ったのです。

「イギリスの歴史」で生徒に課題として提示されたオーラル・ヒストリーの質問事項は、アフリカ系カリブ海移民やアジア系移民が対象になっていました。英語では十分なコミュニケーションが取れない可能性が強い対象です。こうして異文化の人々の語りを聞き、社会的弱者の視点から歴史を読み解く姿勢を持つことは、同化を強要しない寛容型社会を創り出すもととなるのではないでしょうか。

オーラル・ヒストリーによって、時代に流れる雰囲気や文脈を知ることによって、当時の文書を読み解く感覚もまた養われると思いました。

 

参考・引用

1)御厨貴(2002)オーラル・ヒストリー 現代史のための口述記録 中公新書

 

 

研究6   歴史教科書に学ぶデータの読み方

イギリスの歴史- 帝国の衝撃  は、イギリスの中学生向けの歴史教科書です。帝国としてのイギリスの歴史を、物語として書いた興味深い本でした。

中でも惹かれたのは、第8章 アイルランド: なぜ、人々はアイルランド大英帝国について異なる歴史を持つか です。

アイルランドは、古くからイングランドの征服に対して抵抗してきましたが、17世紀になると、イングランド人の入植が開始され、その後も武力衝突が繰り返されました。

教科書では、イギリス支配からの自由と、アイルランド独立を目指すナショナリストと、大英帝国のためにインドやフランスと戦うユニオニストを対立させ、両者の言い分を読者に考えさせます。

この章の課題は、[あなたがいったい何者であるかを決定づける最大の要素のひとつは、受け継がれてきた文化的遺産、すなわちあなたの歴史にあります。しかし、異なる人々が異なる観点から同じ出来事を見たときに、はたして歴史は同じものであり続けるのでしょうか?1)] というもので、それぞれの代表者、ユニオニストのイアンと、ナショナリストのパトリックそれぞれの考え方や、同じ時代や場所に生きた二人がそれぞれに記憶に残る出来事は何か?、それは両者で異なっているのか、具体的に考えさせていきます。

イアンの祖父はイギリス兵士として戦ったことがあり、一方パトリックの祖父はイースター蜂起、つまり独立アイルランド共和国の樹立を叫んだ一人でした。各々が背負ってきた歴史は全くと言っていいほど異なり、それがユニオニストvsナショナリストとして、アイルランドとの向き合い方に色濃く影響してきたようでした。

教科書は、両者を対比させるプロセスで、片方ではなく、それぞれに気持ちを寄せた理解をさせることによって、歴史は1つではない、多角的多層的見方を育てようとしています。

安倍首相とその祖父の関係について取り上げられていた記事とリンクするようですが、イアン/パトリックの例から、個人に生い立ちから染み付いてきた見方、考え方が積み重なって歴史が展開していくことを改めて実感。逆に個人のストーリーにも、歴史や社会の影響が強く反映されることについて確認しました。個人の歴史的研究データの読み方のヒントとなりました。

しかし、こんな教科書で中学生から学べば、思考力が高い人間に成長するでしょうね。こうした教科書の作り方にもまた、イギリスの歴史が影響しているのでしょうが。


文献)

ジェイミーバイロン他(2008)/前川一郎訳(2012). 世界の教科書シリーズ イギリスの歴史-帝国の衝撃 明石書店


 

精神障害者へのまなざし

昨日は、精神科、患者拘束1万人超す・・・10年間で2倍に というweb記事に頭を占拠されていました。即座に精神科病院の急性期化による閉鎖病棟の増加など、医療制度による影響が、ある意味色濃く反映されてきたのだろうかという考えがよぎりました。入院期間短縮と退院促進が病院の急性期化を作ってきた一因ですが、国内の多くの精神科病院は民間病院で、急性期病棟を開設し入院患者を確保しなければ経営が危ぶまれるという実情もあります。10年間で拘束や隔離が適用される自傷他害の恐れのある入院患者が2倍にも増加するというのは考えにくいように思います。

この記事では事実のみを短文で記載していたため、人によって受けとめ方は異なり、どのようにも読むことができると思いました。もしも、世の中に拘束しなければならない暴力的な患者が増えたというイメージの強化につながるなら、人間の恐怖に対する防衛がどのように表れるのか、恐ろしいことだと思います。また、医療従事者が不当に拘束していると読んだ場合、そうしたこともあるかもしれませんが、こうした事態と直面し解決しようと日々努力をしている精神科医療従事者への偏見につながるかもしれません。

翻って4月1日に障害者差別解消法が施行されました。これは、2006年に国連で採択、2008年に発効された「障害者の権利に関する条約(障害者権利条約)」による法律です。この条約は障害者への差別禁止や障害者の尊厳と権利を保障することを義務付けた国際人権法に基ずく人権条約です。日本では、2007年に条約を批准後、2013年に障害者差別解消法が制定されようやく施行されました。内閣府から出ているちらしでは、「この法律は、障害のある人もない人も、互いに、その人らしさを認め合いながら、共に生きる社会をつくることを目指しています」とうたっていますが、その根底にある人権の観点から、冒頭の患者拘束の実態を眺めると、現状では真逆の現実にあるのではないかと思い知らされます。

さて、人権に関連して、障害者への偏見がもっとも強いのは医療従事者だというのをしばしば耳にしますが、私の周りでも精神看護学や精神科看護にとっての最も大きな敵はすぐそばにいる他領域の教員たちだという意見をしばしば耳にします。新卒では精神科には就職しない方がいいと指導するという教員も意外に多いらしいです。しかし、精神科看護師は、一般病棟の看護師が習得していない患者理解や関わりの技術を持っています。まず初めに精神科に就職し新人として学ぶことは看護師としての成長を大きく促すでしょう。

患者拘束の増加の背景には、医療制度、人権意識など重く手の届かないように感じる問題が重なっていて非常に無力を感じます。障害者差別解消法がどのように効果を発揮するのか。

それでも、教育現場で精神看護学の位置づけと重要性について問いかけ、教育者自身の精神障害観や精神看護観に働きかけることは、私にでもできるかなと思います。