君たちはどう生きるか

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5月の連休に片づけをしていたら出てきたこの本、焼けて茶色くなっていたのですが、なぜか「読まなくては!」と駆られカバーをかけて読みだしました。けれども読み上げるのになんと2ヶ月近くもかかってしまいました。昔一度は読んだのですが、主人公が中学生の少年でかつ時代背景が戦前であったためかすぐにはピンと思い出せず、読もうと思うと眠気が出てくることさえあったのでした。

それでも完読へと粘ったのは、故中西睦子先生という看護教育の先駆者がご講義のなかで、主人公の(愛称)コペル君の体験を、看護過程の説明への引用として使われていた、その声が何度か脳裏に浮かんできたからでした。

さて物語は、第1章「へんな経験」というおかしなタイトルからはじまります。コペル君はおじさんと銀座のデパートの屋上にいたのですが、そこから展望される“冷たい湿気の底に身じろぎもしないで沈んでいる東京の街”に目が釘付けになってしまいます。その時、コペル君の心の中に、今までにはなかった変化が起こっていきます。

2年前に亡くなったお父さんと一緒に出かけた伊豆で見た、海面に突き出ていた岩と東京の空に突き出るビルディングが重なるうちに、コペル君には、海の下で人間が生きているかのように思えてきました。自分の知らない何十万人もの人間・・・眼鏡をかけた老人、おかっぱの女の子、まげに結ったおかみさん、前垂をしめた男、洋服の会社員・・・現われては消えていきます。「人間って、まあ、水の分子みたいなものだねえ。」

叔父さんと話しているうちに、コペル君には、どこか自分の知らないところで、じっと自分を見ている眼があるような気がしてきました。見ている自分、見られている自分、それに気がついている自分、自分で自分を遠く眺めている自分、いろいろな自分が、コペル君の心の中で重なり合い、ふうっと目まいに似たものを感じます。

小説は、コペル君のこうした体験と、叔父さんがコペル君に向けて対話的に書いたノートが追いかけ合って進んでいきます。叔父さんは、コペル君の体験を受けて、科学的な見方、主体と客体の視座、社会的認識とは切り離せない人間のあり方を説いていきます。

またある時、コペル君は友達が喧嘩に巻き込まれたらみんなで助けると約束したにかかわらず、その場になったら怖くなって自分だけ尻込み傍観してしまい、情けなさに落ち込んで2週間も寝込んでしまいます。その思いをやっとのことで叔父さんに話したことが契機となって友達とも折り合っていくのですが、叔父さんは、誤りから立ち直ることができるところが、コペル君の言う「人間分子」の運動がほかの物質の分子の運動と異なるところ、人間は自ら何が足りないかを知り、それに基づいて自分の行動を自分で決定する力を持っているとノートしました。心の傷つき、つまり悩みや過ちを正面から見つめて、その苦しさに耐える苦慮から、新たな自信が生まれてくるというのです。人生の後半に入っている自分は、果たしてこのように熟慮した行動へと向けることができているだろうか・・・。

ここには一部しか紹介できておりませんが、著者が、社会的認識からモラルの問題までの壮大なテーマを、中学生の日々の小さな体験から、ここまで平易に読み解いたことに驚くとともに、故中西先生は看護が対象とする病む人々の小さな日常を、いかに読み解くかが看護の過程であるのだ、と言いたかったのかもしれないと思いました。

本書は、コペル君がお父さんを失った体験から立ち直り成長するストーリーでもありました。その過程を叔父さんが知的に感情的に見事に支えています。今年、心理的にある転機を迎えているような感じがしている私自身にとっては、時宜を得た、読むべき本として現われ、だからこそ逃避したくて眠気がきたのでしょうけれど・・・支えられたような読後感でした。