精神保健看護2 こころを身体で感じ、しかし感じないで

看護場面では、体温/血圧の測定や、動けない患者さんの移動の時などに、患者さんに触れることを通して、患者さんへのこころへの共感が生じることがしばしばあります。冷たい患者さんの身体からは、冷たく心もとない震えるような気持ちを、ずっしりと重い患者さんの身体からは、患者さんの重いこころの疲労をと、身体-五感を通したこころの理解がなされています。

患者さんの話を聴くという側面では、精神分析技法としてフロイトが、患者の無意識に対して自分の無意識を、話し手に対する電話の受話器のような役割をもつ受け身的な態度を持って、患者の語る内容の意味を即座にわかってしまおうとせず、理解を保留して自然に語りたいことの文脈が見えてくるのを待つことが大事であると述べています。このことについて、対象関係論という立場のビオンも「もの想い」と呼んで、記憶なく、欲望なく、理解なく向き合うことを治療的態度としています。これは、自分なりに想像してみると、やはり身体ー五感で相手を理解する態度に極めて近いと言ってもよいのではないかと思います。自分のあり方を、行うこと(doing)から、ここに居ること、あること(being)へと転換することによって身体ー五感を研ぎ澄ませることで可能となるでしょう。看護の会話場面にもこのように、身体-五感を開いて「聴く」ことが必要だと思います。

一方で、看護が関わる場面には、目の前の患者さんの命が一刻を争うような状況も含まれています。こうした時は、患者さんの身体をむしろ「物体」と見て、身体を救うことに集中することになります。ある意味、厳しく冷たい側面がないとできない仕事でもあるのです。看護基礎教育では、こちら、いわゆる救命救急状況に焦点を当てた解剖生理学的理解による身体理解を中心に据えるカリキュラムを立ててきました。五感ではなく、どちらかというと頭で身体を理解する学習を積み重ねているのです。五感による理解はほとんど教えられていないのですね。

ところで、ある場面では五感を通して、ある場面では物体として相手の身体を知るという、自分の使い方というのは、結構難しいのではないでしょうか。このあたりは、他の医療従事者の仕事に比較した看護師という仕事の特徴であると思います。果たして、場面によって切り替えて使うことができるものなのかどうなのか。バランスが取れるのか。難問です。