精神保健看護5 看護におけるdoingとbeing そしてbeingを教えること

超高齢社会に向けた看護職の需給見通しは、決して楽観できない状況にあり、2025年に約200万人の看護職員が必要なようですが、少子化の影響で新卒のみではまかなえず、潜在看護師70万人に頼らざるざるを得ない状況1)にあります。

人手不足は、じっくりと、一人の患者さんの傍らに居る、見守るような beingの看護を、ますます阻んでしまうのでしょうか?
 
近年の病院における短期入院化と急性期化もまた、看護師が患者さんの全体像をまだつかんでいない、入院早期に、しかも目に見える看護の提供を求め、「人としての患者」にじっくり関わることを困難にする要因になっています。
 
かつて、看護哲学あるいはリハビリテーションの分野から、看護は、beingであるのが特徴だとして、治療のdoingと対称化して区別してきた歴史もありましたが、短期入院においては、患者さんは10日ばかりしか入院していないのですから、短期目標の設定と早期退院を目指すdoingを必要とします。
 
doingが中心となる現場では、看護師のbeingの活動は対称的に小さくなり、看護師自身がよほど意識しない限り見えなくなっていくかもしれません。患者さんを表すのは、シートにチェックされる体温や食事量など目に見えるもの、精神面についてさえも、不安「あり」「なし」といった極小化された部分的記述に限られ、そのミニ情報から目に見える成果を目指して看護実践がなされます。そうした現場に適応する看護師は、全体ではなく部分を見て部分に看護するのをよしとする者ということになるかもしれません。そこに、「患者」である前にお父さんだったり、お母さんだったり、スポーツ好きの元気な男の子だったりする、その人への個別看護は残るのでしょうか。
 
たとえ医療技術のロボット化が進んでも、精神的なケアはロボット化しきれないために、メンタルケアは人間が行う領域として残っていくと言われています。けれども、それを、短期入院を指向し、部分を見て部分に対応している現場でどのように教えるのか、それもまた困難な課題になってくるでしょう。
 
私は、「患者をその人として」理解し看護実践できる看護師を育てるために、患者さんとのやり取りを丁寧に振り返るような方法で看護学実習での関わりの指導を行ってきましたが、そうした方法は時代遅れになっていくのでしょうか。むしろ、時代が見落とさないように残していく努力が必要であると思ってはいるのですが。
 
今、病院ではなく「住まい」を中心とした地域包括ケアシステムの構築が目指されています。そのなかで、看護はどのように貢献できるのか、beingの領域で力量発揮できる看護師を育てるにはどうすればいいのか、看護教育の岐路でもあると思います。
 
引用資料