看護教育6 今どきの看護とは?

考えることは沢山あるのですが、さっぱりまとまらないまま時間ばかりが過ぎました。それで、いいかげん、まとまるまで待つのをあきらめました。

考えてしまう一つは、看護とはどういうものになってきているのだろうか?ということでありました。臨床看護の話を聞いていると、看護技術優先主義のような方向に益々傾きつつあるのではないかという危惧ばかりがたびもたげてきてしまうからです。

いつからか、基礎教育の実習では、看護学生の短い実習期間でも展開できそうな患者の看護問題を取り上げ学ぶ方向に移っています。どういうことかというと、「不安」のような心の問題は短期間に解決できないので、実習では取り上げないというのです。そうなると、実習では目に見える身体的な問題に焦点を当てることになり、身体的なことはもちろん重要なことであるのですが、では、心と切り離した看護とはいったい何なのだろうかと考え込んでしまいます。

かつて、1970年代に柴田1)が、「看護学が技術学であるという一面をもつことを認めながらも、その技術に対して、常に正しい方向規制を考える看護哲学を、同時に認めるのでなければ、現在の医学が当面している問題の渦中に、看護学もまた巻き込まれてしまうのである」と述べていましたが、40年経った今も、まだその問題のさなかにいるのか。いや、柴田氏が述べているような、こうした話題がなされなくなってきているところを見ると、渦中に巻き込まれて気がつかなくなってしまっているのではないかとも考えてしまいます。

勝手に推測するに、高度成長期の上昇、成長機運のなかでは、看護に向き合って考える、ゆとりがあったのですが、現在のように延々とした看護師不足、医療施設の経営困難といった状況が続くと、看護要員を最小限に人件費を削減することに向き、看護は最低限の範囲に縮こまっていってしまうのではないかと。社会的地位が低く人数が多い看護師は削減の対象になりやすく、削減されて余裕のない仕事をする日々には、心の問題なぞ考えていられないということではないかと思ってしまいます。そして基礎教育でもカットされるのか・・・。

看護師が行う専門的な看護の背景には、人間の営みとしての看護があります。それは人間まるごとの看護であります。その人間の営みとしての看護についての理解と、いわゆる資格を持つ看護師が行う看護についての理解の行き来が、基礎看護教育には大切であると思うのですが。

時代と看護の関係についてもう少し論理だって書いてみたかったのですが、今日はまずこの間ざっくりと考えていたことを記してみました。

 

引用

芝田不二男(1978)増補改訂版 看護哲学 メジカルフレンド社 p.20