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研究5 カテゴリー研究に終わっている という指摘に刺激されて

ある学会で質的看護研究は、カテゴリー分けに終わるものが多いと意見がありました。

フィールドワークやインタビューでのデータを基にして、あるいは事例を基にして質的に分析する研究は、国内看護研究では1970年代後半から、医学書院「看護研究」に登場しています。その前から、米国では1950年代にペプロウやレニンガーといった看護学者たちが、精神分析的、人類学的なバックグラウンドで、臨床看護の分析や看護理論開発に向けて質的な分析を行いましたが、その後、同じくワトソンが人間学的な対象の捉え方について言及しています。

国内では、1980年にANA(American Nurses Association)による「現にある、あるいはこれから起こりうるであろう健康問題に対する人間の反応を診断し、かつそれに対処することである」という看護の定義が、質的研究へと触発されるひとつの転機となっています。疾患ではなく、疾患を持つ人間全体を対象とする看護は、人間全体を理解するための研究枠組みを必要とするようになったのです。

けれども、量的な見方と同時に、質的な見方の重要性が認められるようになってきた昨今、その質的研究がカテゴリー分けに終わっているという指摘だったのです。

この問題提起に並行して、質的研究について学習を続けていたところ、やまだようこ氏のある論文1) 参考となって思考が進みました。参考になったのは、多重のナラティヴ・レベルについての図だったのですが、やまだ氏はそこで、ナラティヴとそれがつくりだされる現場、文脈について、(1)実在レベル、(2)相互行為レベル、(3)テクスト・レベル、(4)モデル・レベルの4段階に分け、(1)を当事者などが生きる「生きられた人生の文脈」の現場、(2)を当事者が研究者とともにナラティヴをつくる状況的文脈の現場、(3)を(2)で語られたナラティヴテクストを研究者が脱文脈化する研究者のテクスト行為の現場、(4)を研究者が他のナラティヴと比較しながら学問知の文脈に位置づける現場としています。

さて、これを眺めてみて、多くの看護研究は、(3)テクスト・レベルに留まってのではないか、そのために、他の分野からみると、カテゴリー分けで終わっていると見られてしまうのではないかと思いました。学問知といっても、看護は、対象が人間そのものであったり、その対象が生きる日々の日常生活であったりするために、統一された理論によって分析しつくせるものではありません。看護の現象を明らかにするためには、看護理論で取り上げられた既知の理論のみでなく、心理学、社会学、人類学、哲学と多くの分野の学問知によって、ナラティヴデータの意味を討論していく必要があるのです。

さらに、「日常生活の援助」の特殊性も影響しているのではないでしょうか。つまり、日常生活の援助の場合、言外、あるいは人と人の間にある、さまざまな想いは、言葉にされないまま、あいまいにされながら、患者と看護師の関係のなかに起こっている甘えのなかに、静かに置かれることによってこそ、ケアとなることが多いのだと思います。例えば、背中を拭くといった小さな援助のなかには、身体を清潔にするにとどまらず、触れる-触れられることによる安全感や安心感、それを通してつながる人間同士の絆の実感が生じていると思いますが、その想いは言葉にせず過ぎるなかにこそ、ケアの存在意義が生じるという営みなのです。こうしたケアの現象は、臨床看護の現場では意識されることが少なく、また言語化するニードさえも意識されていないのかもしれません。当然それを掘り下げて言語的に明らかにするような質的研究も少なくなるでしょう。むしろ、日常をつらつらと綴るような、カテゴリーの提示という方法で日常を描くことによって、看護の「間の現象」には触れず、「表の現象」を捉え続けているのかもしれません。

私自身は、掘り下げた研究をめざしてはいるのですが・・・。

 

参考)やまだようこ(2007)「質的研究における対話的モデル構成法」、質的心理学研究第6号、174-194、新曜社