人生100歳時代の看護

週間医学界新聞の新春随想で日本看護協会会長が、人生100年時代を想定して、全ての看護職に、ニーズをとらえる力、ケアする力、協働する力、意思決定を支える力、が必要だと書いています。新しくはなく、今までもずっと挙げてきた力だとは思いますが。

一方で、特に今年は、2015年に特定行為に係る看護師の研修制度が施行されたことを受け、地域で支える看護師として、臨床推論、フィジカルアセスメント他、特定行為のできる看護師の活躍のための制度作り促進を大きく取りあげていました。医療の必要な患者の地域での診療およびケアのニーズに対してです。社会変化によって看護への社会からのニーズは変化し、大きく医学的技術的な方向にシフトしていることがよく分かる内容だと思いました。しかし、これが人生100年時代を生きる人々とどう関連していくのか、ケアする力、協働する力、意思決定を支える力とどう関連するのか・・・これにはあまり触れられていません。

実際は、目まぐるしく変化する社会からのニーズをキャッチするのが遅れ遅れで、何に診療報酬がつくのかに絡んで、あまりまとまりなく進んでいて、そのなかで看護師が専門に行うケアとは何か言語化しきれない現状、誰とどう協働するのか、誰の意思決定をどのように支えるのか、十分討論されていない実情が沢山潜んでいるように思います。

ニーズを捉えることは大事とは言え、つい最近まで心の看護と言っていたら、今度は技術の提供が必要、と、方向を右に左に変えながら何が看護の専門なのか明確にせず、高齢社会の激動する社会に翻弄されていて、定まらないような、落ち着かないスタートのように感じました。

とくに、意思決定を支えるというのはその人らしく生きるには必須であるけれど、厳しい目標なので、もっと論点の中心にもっていく必要があると気になりました。100歳老人と老人を抱える家族や取り巻く社会関係のなかで関連する人は、患者、家族、住民、医療福祉従事者他沢山います。誰の意思決定を看護の場でどのように支えればいいのでしょうか。具体を考えると非常に難しいのではないでしょうか。

もしかしたら、患者自身や家族の意思決定を支えたいという看護職の強い思いは、看護職自身が揺られて葛藤するばかりの時代のなかに居て、何が看護なのか打ち出せない、自分自身が意思決定できないことへの思いの反映なのかもしれないと思いました。

複雑な事情が絡み合ったなかで、難しくなってきた看護について、事例毎にじっくり考えていく場や力が必要だと思います。制度作りの一つである特定看護師研修体制のなかに、じっくり考える授業が、加えられてほしいものです。