身体・霊・死 の記憶


二年半前に東京都庭園美術館で行われたクリスチャン・ボルタンスキー展に行きました。再来日の展示、それも今回は、50年の軌跡―待望の大回顧展、とあり、国立新美術館に行ってきました。


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会場内はかなり広く、幾つかの展示が同時に開催されていました。


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平日に関わらず老若男女、途切れることのない人々ー。

 

ところが、最初の部屋で咳と嘔吐の男性の映像、続けてマネキンをなめ回す男性。途中で退座する観客もいるほど、なまめかしく吐き気をもよおさせる映像ではじまりました。

次の部屋からは白黒写真がバネルになって沢山展示されていました。そこに、背中から、前の部屋の咳のごほごほする音がのしかかってきます。

居場所がなく気持ちがさまようようでした。すると、庭園美術館でみたような、小さな影絵で造られた部屋が見えてきて覗いてみました。骸骨やら藁人形やらの影絵で心休まるというのでもないのですが、あのはしっぽに小さくなって座り込みたいという衝動が起こりました。

けれども、先に足を進めてみると、心臓の鼓動を響かせ天井の電球を鼓動に合わせて点滅させている部屋に。さらに広間に写真、写真。比較的若い小さい子どもの写真が多いのですが、ぼかしてあったり、同じものを繰り返し貼ってあったり、大判、小さい写真とさまざまです。ただ底抜けの笑顔はなく、どこかに苦痛がこもっていて、苦しい気持ちになります。そこに背中から、鼓動や咳が被さってきます。

 

ーようやく金属音の風鈴が聞こえてきて少しほっとしました。


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しかし、室内には不安や恐怖があります。


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この世界に居続けるのは辛いと思います。咳や舐めるといった身体的に迫ってくる感触と死の表現が重なることで、観る者の身体記憶に苦痛や死が侵入してくる迫力がありました。

展示場という場の設定や人の多さが何とか世俗的な現実的な雰囲気に引っ張り、自我が支えられるといった感覚でした。

9月2日までの展示です。