演劇実験室の試み

第8回プシコ・ナウティカの会に参加してきました。松嶋健著「プシコ ナウティカ」の抄読会で、今回は第6章「演劇実験室と中動態」でした。

「劇団態変」でボランティアをされている研究者が報告してくださり、興味深い話しを聞かせて頂きました。

第6章では、イタリアのある地域で実施されている演劇プロジェクトが紹介されています。演劇実験室というのは、もとはポーランド出身の演出家グロトフスキが始めた実験劇場の名称で、映画やテレビなどの視覚メディアが発展する中で、演劇にとってミニマムな要素である俳優と観客、両者がいる場を重視する実験的な空間を構想したものです。ここでは、自らの仮面を剥ぎ取り自分自身を超え出ていくことが追求されています。

グロトフスキは1986年から亡くなる1999年まで、その後も演劇実験室に参加した人たちが各地で実践しましたが、現在は予算の関係で中断しているようです。

わたしの関心は、これがイタリアでは地域精神保健のプロジェクトとして始まったけれど、精神医療は非関与で、医療の論理の排除されている点でした。公開パフォーマンス時を除き、主治医や看護師は見学できないそうです。演劇の最終目的は観客であり治療的介入ではないのです。

実際のトレーニングプロセスは、歩いたり、自分の自然な動きに身を任せたりしながら、自己の内面が浮き上がっていくような方法が取られていて、芸術療法のダンス・ムーブメントセラピーを思い出させられるものでした。

演出家の仕事はこうしたプロセスを経て芝居が出来上がってくるのを「待つ」ことで、俳優は贈り物としてパフォーマンスを提供し、観客は観る証人となります。

グロトフスキは、トラウマ的な体験や状況、自動的に反復している行動のパターンにある、身体ー記憶を解放し、身体的無意識を経験し自覚し身体のブロックを外していくことを「プシコ ナウティカ(魂の航海)」と呼んでいます。

そして、意識や思考に由来する身体の抵抗を取り除いていく引き算の過程で浮かび上がってくるのは、能動にして受動という体験だそうです。それを本書では「中動態」という一様相として説明しています。

中動態は、能動が同時に受動でもあるような身体と行為の次元で、ロラン・バルトによると、水とともに私が流れているのか、流さているのか、どちらでもあり、どちらでもない、中性という位相で、もともと西欧にも存在した文法形態だそうです。

中動態は、今、当事者研究や依存症の回復のプロセスで注目され出していますが、今回の報告者は、國分功一郎著「中動態の世界ー意志と責任の考古学」の國分氏と上岡氏(ダルク)の対談から、紐解いてくださいました。

上岡氏によると、薬物依存症者は、「無責任だ」「甘えるな」「アルコールもクスリも自分の意志でやめられないのか」と言われるそうですが、意志を出発点とするとダメだそうです。また、こうした言葉を投げかけられると、「しゃべっている言葉が違う」と感じるのだそうです。

國分氏によると、その回復を考える時には、薬物離脱の努力としての能動でも、強制による受動でもなく、中動態と能動態の対立として見ることによって、意志が前景化しないのではないか、意志の存在の有無への違和感から「しゃべっている言葉が違う」と感じるのではないかといいます。

さて、こうしたお話から、(意志を持つ)強い主体であろうとすることの病いとしての依存症という見方が思い浮かんできました。それから、上岡氏の発言にもあった「甘え」についてです。昔、アルコール依存症患者の病棟にフィールドワークで出かけていた時、看護師が患者に「なめられている」、「ひねくれている」と言っていたのを思い出し、意志にこだわった見方ではなく、甘えから見るといいのではないか、そして、中動態から見る見方は、「甘え」から見る見方とつながるものがあるのではないか、とふと思ったのです。

演劇実験室での参加者は俳優のプロ志向者より、少し興味があるとか紹介されたといった「あいまいな主体性」を持っている人が多いと「プシコ ナウティカ」には説明されているのですが、彼らは甘え上手であるのかもしれません。一方、社会適応が難しい依存症者は、なめたりひねくれたり、と、甘え下手という見方をしてみると、甘えの概念を介在させることで、中動態の実態を理解できそうに思いました。

最後に、劇団態変との対照からのお話も聞けました。10月13日~15日 寿ぎの宇宙、日暮里のd-倉庫で開催されます。

http://www.confetti-web.com/detail.php?tid=40258&

 

次回第9回は、「日本における性別移行の精神疾患化と世界における脱性疾患化の潮流」ということで、抄読会とは離れますが、とても関心深い講義です。

9月23日(土)14時~17時 目黒区五本木住区センター

 

引用参考文献

松嶋健(2014)プシコナウティカ 世界思想社

 

 

 

 

 

 

 

ページはめくられ続ける

全米大ベストセラー、[OPTION B ]のタイトルに引きつけられ、シェリル・サンドバークの人生物語を読んでみました。夫のデーブのあまりにもの急死に驚き絶望し、けれども立ち直るそのプロセスを、力強く躍動感あふれるリズムで書いています。櫻井祐子さんの翻訳がこなれていてとっても分かりやすいのも、シェリルさんの生き生きとした日々が、どくどくと伝わってくる理由だと思います。

副題にー逆境、レジリエンス、そして喜びー とあり、精神障害者の回復でも取り上げられるレジリエンスなどの文字が目を引くのですが、FacebookのCEOであるという有名人が、夫の死を機に、それをOPTION B、と捉えて奮闘するところに、人間として身近さを感じられるところが、ベストセラーにつながったとも言えるでしょう。

シェリルさんは、レジリエンスの種まきとして、セリグマンが3つのP、自責感(Personalization)、普遍化(Pervasiveness)、永続化(Permanence)が苦難からの立ち直りを妨げると述べていることを取り上げて、また「つらいできごとが、自分ひとりのせいではない、すべてではない、ずっとではない」と気づけば立ち直りが早くなるという研究成果を引用しています。

誰かに語ることの重要性、耳を傾け話しやすいように気を配ってくれる人のことをオープナーと言い大きな救いとなることを強調し、そして、シェリルさん自身が、同僚に友人に多くの人に聞いてもらいながら回復した実体験と、さらにはシェリルさん自身の周りの人たちの別れや暴力や虐待などの逆境体験と、その逆境からの立ち直りについて、学究的な視点も交え距離を取りながら論じつつ、感情を込めて語る、そんな文体でした。

回復の途の激しい感情の変化と感情の力と早いペースは、米国のハイテンションな成果重視社会のなせる技のようにも思え、読んでいて着いていけないところもありました。けれども、レジリエンスは、個人のなかで育まれるだけではなく、個人のあいだでー地域で、学校で、町で、政府でー、育むことができ、人々が一緒にレジリエンスを育めば、個人として強くなれるだけではなく、コミュニティとしても、ともに障害を乗り越え、逆境を未然に防ぐことができるという見方には、まさに体験に基づく力が溢れていて共感しました。

また、人間らしさは、人とのつながりの中から生まれる、そうした考え方が、シェリルさんの実体験を通して、Fecebookの「いいね」に込められていることは知ってよかったです。

 

シェリル・サンドバーク、アダム・グラント、OPTION B、日本経済出版社、2017

 

 

 

栗林公園へ

先日、仕事で高松に行くようなことがあって、早起きして、高穂線に乗って、栗林公園に足を向けてきました。16C後半に豪族佐藤氏に築園され、1642年には高松藩主、松平頼重公に引き継がれたそうです。昭和28年に特別名勝に指定されています。


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急いで歩きましたが。

 

こんな、林の中の道。散歩する方、公園整備の方々がちらほら位の、静かな、でも、朝から蝉はよく鳴いてました。


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蓮の花でしょうか。巨大化してます。


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こちら、飛来峰より、紫雲山を背景に圧巻の景色のビューポイントです。


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下に降りて、橋のたもとに。

 
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とても素敵な公園でした。

1時間歩き、8時前に宿舎に戻りました。思いきって出かけ、夏の朝の散策は汗ばむ気温でしたが、爽やかな気分を残してくれました。

 

いそがしや



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酷暑が続き、何やら…家族も仕事も忙しい毎日が、酷暑のように、こちらも続き、早くも夏バテになりそうなこの頃です。

夏と言えば、🌻向日葵!と思っていましたが、今年は木槿が目に飛び込んでくることが多いです。先日尋ねた大学にもあり、暑いなか、しおれず、結構頑張っているなあ、と眺めてきました。写真は我が家のです。

週末も連続でお仕事で、頭が忙しいのに、地方で大学生している子どもが体調をくずして、急遽、看病に出掛けたり、自分の年齢に合わないスケジュールをこなしておりました。

今日は、絶対仕事はせず、一日休養!と、明日の忙しさが少し気になりましたが、明日への思いを振り切って過ごし、まあ、ゆっくりしました。

時間コントロールは難しく… ふと、

[そういう時期が、人生で一番いい時期]と言っていた亡きおじを思い出しました。

アディクションを追いかけて

毎年、講義内容を考えることをきっかけに、その年年のアディクションの行方を追っています。学生の身近な関心は、一昔前には摂食障害が多かったのですが、最近はSNS依存についてに移行していて、スマホから離れられないと嘆いています。

一方、今年はエナジードリンクや眠気防止薬による若者のカフェイン中毒が問題になっています1)。2011年からの5年間に少なくとも101人の病院搬送があり、内7名は心停止となっていて、深刻なことです。

この話題を講義で取り上げたところ、エナジードリンクを思い浮かべたし、アディクションは他人ごとではないという感想が沢山寄せられ、気が付かないうちに依存がじわじわと浸透してきていることが自覚されたようでした。

今日、たまたま入ったコンビニでは、入り口にそのエナジードリンクが数種陳列されていて、色さまざまなパッケージが人目を引いていました。健康的な商品のイメージに誘われて、レポートに試験に部活に忙しい学生たちや新し物好きな学生たちは、手に取るのだろうなあと思いました。

そんなに眠気に抵抗してまでやらなくてはいけないことが沢山あることに、異常事態を感じさせられているのですが。

アディクションが時代を反映する状態であることがひしひし感じられるエピソードです。

 

1)カフェイン過剰摂取注意 中毒、5年で101人搬送 学会調査:朝日新聞デジタル

 

リフレクティブな関係ー学会を通して

無事に第27回日本精神保健看護学会が終わり東京に帰ってきました。

今回は、語りがテーマであっただけに、関心も深かったのですが、大会長の長年にわたる研究へのずっしりと重みを感じる語りの講演に心を揺さぶられたり、また、知人が十年以上も前に行った研究をやっと発表した会場に参加する機会を得て、彼女の長年に亘る精神看護への思いをせつせつと感じたり、と心に応える2日間でした。

他にも、フィンランド 西ラップランドのケロプタス病院のオープンダイアローグについてのワークショップでは、家族や援助チームのリフレクションの実際にロールプレイを通して多少触れ、人を通して支え合い回復することへの希望を改めて見いだせた収穫もありました。

最終のシンポジウムでは、″語り合う当事者・看護者 試される未来に向けて”、というテーマで、4名の精神障害者グループと、4名の看護師グループが登壇して、そこに各1名ずつのコンダクターが入って、両グループが交互に語り合いを繰り返すという、これもまたリフレクションを柱にしたもので、とても興味深かったです。

まず、当事者グループが20分間フリーに話をすると、それを受けて看護者グループが20分間話し合うといった具合でした。さらに、後半では、会場も含めてリフレクションを拡大するという企画でした。

当事者グループの忌憚ない語りの中に、看護師が、登場人物としてあまり出てこなかったことについて、看護者グループは寂しさを感じていましたが、それなのに「存在が前に出ない方がいいのかもしれない」と看護者が言っていたことが、本当の気持ちと逆のことを言っているようで心に残りました。当事者が自立していけば看護者は不要になるので当たり前ではあるかもしれないけれど、看護者がもっと当事者に認めてもらえても当たり前ではないかという承認欲求も、また当然であるように思えたのです。

当事者と看護者それぞれの心の中には、甘えたいけれど甘えられないというアンビバレントな思いがあるのだと思います。「怖い看護師が優しくしてくれたことが印象に残っている」という当事者の発言がありましたが、まさに、統合されきれないような看護師像と甘えたいのに安心して甘えられない裏腹な気持ちが表れているように思いました。精神の病は甘えの病といったゆえんでしょうか。

甘えの関係から、当事者ー看護者をゆっくり眺めれば、しっくりとした「これからの関係」が見えてくるようにも思いました。