心の回復と芸術活動

10月中旬に箱根ヶ崎にある瑞穂町郷土資料館で開催された、精神障害者によるギャラリートークに参加してきました。平川病院などで長く造形教室を主宰されてきた安彦講平先生、地域活動支援センターひまわりで活動されている山本真由美先生による支援のもとに創作された作品の数々を、作者の語りによって紹介されるという企画でした。

精神科病院には学生の実習指導でしばしば行っているものの、急性期の病棟に通っていると、行くたびに入院患者は入退院によって変わっているし、学生には人としての理解と言いながらも、地域生活を含めた場面に参加したり、回復の途上をともにさせて頂きながら実習をすすめるような機会が少なくなっていたこともあってか、とても新鮮なインパクトを受け、あたらめて、作品と作者の語りをを通して、人の回復とは何なのか、考えさせられました。

なかでも、収容所となっていた精神科病院時代の病院の黒い扉を描いた名倉氏の作品は、強く心に残っています。何重にも重なった鉄格子とその奥に見える黒い扉。最近の病棟は新築され鉄格子が取り除かれ、外観もきれいになってきてはいますが、入院することへの思いは同じではないかとよぎりました。

看護師は日常性にかかわるうちに、心の内面よりも食事や入浴など日々がつつがなく進んでいくことに気持ちをとられることがしばしばありますので、日常性のなかでの一瞬一瞬の人の感情や思いに敏感になれる人を育てていきたい、とこれもあらためて思いました。

 

11月19日にプシコナウティカの会に安彦先生が来られる予定です。

主催の井上先生にお声がけ頂き、私も感想など述べさせて頂くことになりました。

以下、井上芳保先生によるお知らせです。

 

第20回 プシコナウティカの会のご案内 ―――――――――――――――――――――――

日時 2019年11月9日(土) 13:00~17:00

場所 東中野区民活動センター洋室1&2号 (「公教育研究会」名で予約) 

〒164-0003 東京都中野区東中野五丁目27番5号 電話 03-3364-6677

アクセス方法  JR「東中野」駅東口北側から徒歩8分・都営大江戸線東中野」駅から徒歩12分・東京メトロ東西線「落合」駅3番出口から徒歩5分 https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/174100/d002446.html

テーマ 臨“生”(りんしょう) アートの原点を考える

報告者 安彦講平 (あびこ・こうへい 東京足立病院、平川病院「造形教室」主宰)

報告者プロフィールに代えて 「造形教室を主宰する安彦講平は、1967年から約40年にわたり、精神病院の中で心を病む人たちと共に歩んできた。その理念は近年よく目にする「芸術療法」や「アートセラピー」とは異なり、「参加者が主体的にアトリエに集い、外から与えられたり指導されたりするのではなく、身を持った自由な自己表現を通じて自らを“癒し”、また支えていく営み」を大切にしたものである。映画はこの造形教室を舞台に、心病む人たちが芸術を生きる支えとし、安彦と共に歩んだ10年間の営みを映し出す(なお安彦の造形教室は平川病院以外にも、東京足立病院〔足立区・67年~現在〕、丘の上病院〔八王子市・70~95年〕、袋田病院〔茨城県久慈郡・01年~〕でも営まれている)」

(月刊「ノーマライゼーション 障害者の福祉」20091月号(第29巻 通巻330号)映画「破片のきらめき」紹介記事より)

コメンテータ 榊 恵子 (さかき・けいこ 神奈川県立保健福祉大学教授、精神看護学)

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今回は、長年にわたって精神科病院で「造形教室」を主宰して来られた安彦講平さんに話して頂けることになりました。安彦さんは第17回の「古井由吉『杳子』を読む」(5月25日、武田秀夫さんの報告)の場に来て下さいました。そしてパターナリズムの功罪が議論され、「する-される関係」をどう問うべきかが話題になった時に、「臨床」を「「臨“生”」と読み替えてみたらどうなるだろうと提言されたのです。とても興味深いお話でした。

刺激を受けた私はお手紙を差し上げ、八王子の平川病院を訪れ「造形教室」を見学させて頂くことになりました。9月13日のことです。アトリエの入口には「芸術とは治ってはいけない病気なのだ」と書かれたモザイク作品があり、中ではメンバーが熱心に創作活動中。明るくて活気があって居心地の良い場所でした。「臨床」という捉え方だと彼らは「患者さん」ですが、その呼び方はふさわしくない雰囲気でした。「「臨“生”」の視点から捉えると、「病」というものの見え方も変わってくるようです。それは人生の中で誰にも起こりうる、一つのポジティヴな状態に他ならないのだと。以前に取り上げた「病者の光学」(ニーチェ)という概念を思い出しました。

当日は、造形教室の様子のわかる動画(「破片のきらめき」とは別のもの)を最初に映して開始する予定です。コメンテータは、1944年のブラジルにて女性の精神科医が行った実践を描いた映画「ニーゼと光のアトリエ」を紹介する文章を以前に『社会臨床雑誌』25巻1号に寄稿して下さった榊恵子さんにお願いしました。気づいたことを自由に話していただきます。「第6回 心のアート展 臨“生”芸術宣言!」のパンフレットに「臨“生”」を説明する文章と魅力的な詩が載っていたので下記に紹介しておきます。当日がとても楽しみです。  (文責 井上芳保)

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「臨“生”」とは、それぞれ、その時の、その人の生に臨んで全体を見る、全体に向き合う、という意味が込められている。従来の医療分野における「臨床」つまり、病気、障害、老年など、床に臥している人、援助を求めている人の傍らに寄り添い、治療、あたたかく見守ってあげる、安全であるように気配りしてあげる、という意味合いには、弱者・強者の段差、境界を隔ててきた関係性がついてまわる。

「心のアート展」の作品群は、上から与えられ、課せられ、外から評価、解釈されるものではなく、それぞれが表現の主体となって自由に描き、作り、身をもった自己表現の体験を通して、もう一人の自分と出会い、潜在する個性や可能性を引き出し、癒し、支えていく「臨“生”」のアートである。

 作品は観る人の立ち位置、視点・観点によって様々に変化、変容する。自己の現況と向き合った表現を通して、観る側もまた自己を開示し、自己と向き合う契機がもたらされる。「向く」の「む」は、古語では「身」であり、「合う」とは「交わり」であるという。つまり「向き合う」とは、身をもって交わることであり、それは“生”の全体と向き合うことに他ならない。

 生老病死、生きることは老いていくことであり、その途上、病い、障害、天然自然の様々な災厄に遭遇する。その時々の困難に向き合っていくことが、生命活動の絶え間ない営み、“生”であり、生命の計り知れない深淵との架け橋として「臨“生”芸術」は人間的感性の営為である。

 

臨“生”芸術宣言!

 

風に向かって叫ぶ

わたしは 何のために生きているのですか?

 

閉められた扉の前で

壊れゆく自分

 

出来ることを求める声が

普通という価値観を 冷たく尖らせていく

 

そばにいる人たちに受け入れてもらえるように

性格を削っていく

その痛み・・・

 

変えられないものがあるとしたら

それは いまの自分にとって 一番に大切にすべきもの

わたし に広がる世界は わたしが受け取った世界なのだから

 

声にならない叫びや 溢れ出す悲しみ

誰かにぶつけたら暴力とも言われる怒りを抱えながら

一本の線が 昨日と今日とを繋いでいく

 

風の中に答えを求めながら

何もかもを赦して この道を生きたい

 

そして 病むという苦しみを知った人の声を聞こうと

それを切望する人に出逢う時

わたしは心を開いて あなたの苦しみに触れよう

 

上記の文章と詩は、「第6回 心のアート展 臨“生”芸術宣言!-――生に向き合うことから」(2017627日~72日 東京芸術劇場、一般社団法人東京精神科病院協会主催) パンフレットより抜粋