研究3 研究対象へのまなざし ー二つの母国に生きてー

今年、9月に発刊されたドナルド・キーン氏の文庫本「二つの母国に生きて」は、1980年代までのキーン氏の研究のプロセスと成果が概観できるものでした。当時のリーダーズ・ダイジェスト日本版用に執筆されたものが中心に編集されていて、誰にでも読みやすい文体になっています。

キーン氏は、日本文学研究者として著名な方ですが、そもそも外国語を学び始めたのは、幼少時に貿易商の父と旅行した時、外国語を知らなければヨーロッパ人に通じないという体験を持ったことが契機となっていると述べておられます。さらに日本文学研究家となったのは、まだ研究者が少ないこれからの分野として勧められたことがきっかけだそうですが、数十年の研究歴を経て現在では国籍も日本に置かれています。

キーン氏の研究の足跡を読んでいると、キーン氏は私などよりもずっと日本の文学や文化、社会への関心が強く、歌舞伎や能や浮世絵などさまざまな作品にじかに触れ、さらには日本人の友人を通して生きた日本と交流しておられることがよくわかりました。そして、長い年月の間に、二つの母国の懸け橋となりながら、独特の距離感をもって事象を読み解き、みごとな日本文化論を展開されているところから、研究対象への熱いまなざしと冷静なまなざしの両方を備えておられることもわかりました。とくに、避けて通りたいであろう、戦争犯罪をテーマに書かれたエッセイでは、米国、日本の両国に生きた者として苦しい思いをしながらの執筆であったことが偲ばれる印象に強く残る文章が続いています。

そんなキーン氏が危惧しているのは、後続の研究者の仕事が専門分化していくことによって、主題が限定され特定の文献の判読に努めることに力がそそがれる一方で、研究者は日本に実際に訪れる必要を認めなくなるかもしれない、ということだそうです。研究成果を量産することが求められるようになっている最近の現状も、そうしたことに覇者をかけるかもしれません。実際に足を運んで触れる、研究対象への情熱や愛情、といった貴重なものが失われたとき、研究対象へのまなざしは、どう変化していくのか、それは確かに心配なことだと思いました。

参考

ドナルド・キーン(2015) 二つの母国に生きて 朝日文庫

 

 

 

看護教育6 今どきの看護とは?

考えることは沢山あるのですが、さっぱりまとまらないまま時間ばかりが過ぎました。それで、いいかげん、まとまるまで待つのをあきらめました。

考えてしまう一つは、看護とはどういうものになってきているのだろうか?ということでありました。臨床看護の話を聞いていると、看護技術優先主義のような方向に益々傾きつつあるのではないかという危惧ばかりがたびもたげてきてしまうからです。

いつからか、基礎教育の実習では、看護学生の短い実習期間でも展開できそうな患者の看護問題を取り上げ学ぶ方向に移っています。どういうことかというと、「不安」のような心の問題は短期間に解決できないので、実習では取り上げないというのです。そうなると、実習では目に見える身体的な問題に焦点を当てることになり、身体的なことはもちろん重要なことであるのですが、では、心と切り離した看護とはいったい何なのだろうかと考え込んでしまいます。

かつて、1970年代に柴田1)が、「看護学が技術学であるという一面をもつことを認めながらも、その技術に対して、常に正しい方向規制を考える看護哲学を、同時に認めるのでなければ、現在の医学が当面している問題の渦中に、看護学もまた巻き込まれてしまうのである」と述べていましたが、40年経った今も、まだその問題のさなかにいるのか。いや、柴田氏が述べているような、こうした話題がなされなくなってきているところを見ると、渦中に巻き込まれて気がつかなくなってしまっているのではないかとも考えてしまいます。

勝手に推測するに、高度成長期の上昇、成長機運のなかでは、看護に向き合って考える、ゆとりがあったのですが、現在のように延々とした看護師不足、医療施設の経営困難といった状況が続くと、看護要員を最小限に人件費を削減することに向き、看護は最低限の範囲に縮こまっていってしまうのではないかと。社会的地位が低く人数が多い看護師は削減の対象になりやすく、削減されて余裕のない仕事をする日々には、心の問題なぞ考えていられないということではないかと思ってしまいます。そして基礎教育でもカットされるのか・・・。

看護師が行う専門的な看護の背景には、人間の営みとしての看護があります。それは人間まるごとの看護であります。その人間の営みとしての看護についての理解と、いわゆる資格を持つ看護師が行う看護についての理解の行き来が、基礎看護教育には大切であると思うのですが。

時代と看護の関係についてもう少し論理だって書いてみたかったのですが、今日はまずこの間ざっくりと考えていたことを記してみました。

 

引用

芝田不二男(1978)増補改訂版 看護哲学 メジカルフレンド社 p.20

 

 

 

 

晩秋

 

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2日くらい前の朝ですが、職場へと急いでいたら、すすきが朝日に照らされ光っていました。思わず足をとめてしばらく見とれておりましたが、秋も終わりに近づいたなあとふと寂しい思いになりました。

数年前まではこうして足をとめることはなく、忙しい日々に埋没していたのですが、少しずつ心のありかたが変化しているのかもしれません。

朝日はとても眩しくて直視できませんでした。が、すすきを通って射してくるその光の強さに惹かれました。

 

 

ツワブキ

菊のような花、何だろ⁉ と思って毎日気にしていましたが、ふきの花でありました。花言葉…困難に負けない ですって。わたしを励ましてくれるように、目に入るべくして、入って来たのでしょう❗

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精神保健看護5 看護におけるdoingとbeing そしてbeingを教えること

超高齢社会に向けた看護職の需給見通しは、決して楽観できない状況にあり、2025年に約200万人の看護職員が必要なようですが、少子化の影響で新卒のみではまかなえず、潜在看護師70万人に頼らざるざるを得ない状況1)にあります。

人手不足は、じっくりと、一人の患者さんの傍らに居る、見守るような beingの看護を、ますます阻んでしまうのでしょうか?
 
近年の病院における短期入院化と急性期化もまた、看護師が患者さんの全体像をまだつかんでいない、入院早期に、しかも目に見える看護の提供を求め、「人としての患者」にじっくり関わることを困難にする要因になっています。
 
かつて、看護哲学あるいはリハビリテーションの分野から、看護は、beingであるのが特徴だとして、治療のdoingと対称化して区別してきた歴史もありましたが、短期入院においては、患者さんは10日ばかりしか入院していないのですから、短期目標の設定と早期退院を目指すdoingを必要とします。
 
doingが中心となる現場では、看護師のbeingの活動は対称的に小さくなり、看護師自身がよほど意識しない限り見えなくなっていくかもしれません。患者さんを表すのは、シートにチェックされる体温や食事量など目に見えるもの、精神面についてさえも、不安「あり」「なし」といった極小化された部分的記述に限られ、そのミニ情報から目に見える成果を目指して看護実践がなされます。そうした現場に適応する看護師は、全体ではなく部分を見て部分に看護するのをよしとする者ということになるかもしれません。そこに、「患者」である前にお父さんだったり、お母さんだったり、スポーツ好きの元気な男の子だったりする、その人への個別看護は残るのでしょうか。
 
たとえ医療技術のロボット化が進んでも、精神的なケアはロボット化しきれないために、メンタルケアは人間が行う領域として残っていくと言われています。けれども、それを、短期入院を指向し、部分を見て部分に対応している現場でどのように教えるのか、それもまた困難な課題になってくるでしょう。
 
私は、「患者をその人として」理解し看護実践できる看護師を育てるために、患者さんとのやり取りを丁寧に振り返るような方法で看護学実習での関わりの指導を行ってきましたが、そうした方法は時代遅れになっていくのでしょうか。むしろ、時代が見落とさないように残していく努力が必要であると思ってはいるのですが。
 
今、病院ではなく「住まい」を中心とした地域包括ケアシステムの構築が目指されています。そのなかで、看護はどのように貢献できるのか、beingの領域で力量発揮できる看護師を育てるにはどうすればいいのか、看護教育の岐路でもあると思います。
 
引用資料
 
 

アルコール2 アルコール依存とアディクション

 

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とある大学に毎年一回出張し、アルコール依存症アディクションについての講義をさせていただいています。なぜか、毎年曇り・・・。今年は桜の木の葉から少しの木漏れ日が・・・。

 

アルコール依存症というと、精神科病棟には、飲酒によって人間関係、社会関係に問題が生じたような場合に入院して来られますが、患者さんの多くは、むしろ、肝硬変、膵炎、消化性潰瘍、他全身の臓器障害で内科や外科などの一般科に入院されております。アルコール1でも述べましたが、アルコールの関連死は、WHOの2012年調査によると、10秒に1人、さらに死因の3分の1が糖尿病と心疾患で占められているとされています。

と、聞いても驚くばかりかもしれません。飲酒経験はあっても、依存症は他人事といった受けとめ方が多いのではないでしょうか。

さて、今年7月15日の朝日新聞 be between1) に、やめられないものありますか?と題された記事が出ていました。朝日新聞のbeモニターが対象となった調査結果を紹介しながら依存症にも言及しています。表題の質問の返答では、63%の人が「ある」と答え、やめられない品目として、トップから、間食 440人、酒 220人、夜更かし 202人、過食 181人・・・となっていました。やめられない理由は、意志が弱い 761人、やめるとストレスになりそう 436人、暇をつぶせる 174人等です。「わかっていてもやめられない」そんな嗜好品や行動は誰にでも心当たりがあるようなものなのです。そういうふうに自分に引きつけて思い浮かべてみると、それらが高じて疾患にいたった人々との間に存在する壁が意外と低いことに気づくことができるのではないでしょうか。またこの記事に、やめられないものとしてアルコールの他にも・・・間食・・・とあがっているように、こうしたさまざまな物質、行為、関係への埋没としてひろく捉える見方が、アディクション(嗜癖)という言葉によって可能になりました。

みなさんは、自転車に乗ることができますか?もちろん乗れる方はたくさんいらっしゃると思いますが、大人になると電車や車を使うようになって、乗る用事がなくなってしまい自転車に乗っていたことを忘れてしまうこともまた多いと思います。ところが、数年数十年経って、例えば子どもをシートに乗せて走らなくては!という状況になってドキドキしつつ乗ってみると、すごくひさびさなのに、自転車には乗れます。不思議ですが身体が覚えているのです。

同じようにアルコール依存症者の身体には泥酔する飲み方が刻みこまれています。そのため、断酒十年後の同窓会での乾杯をきっかけに再発するようなことがあるのです。断酒と言って、お酒を完全に断つ療法の継続を重んじるのはこのためです。よくアルコール依存症は「意志の病」などと言われておりますが、実際には、意志ではコントロールできないのでくるしいのです。自転車に乗るのが習慣とすると、過度な飲酒行動は悪習慣と言えるでしょう。身近にイメージが広がってきたでしょうか。

アルコール依存症者の心には耐えがたい大きな感情が渦巻いていて圧倒されしまい、そのコントロールが難しいために、依存症者は酩酊し身体感覚を鈍化させることで対応しようとしています。根本的には大きな感情の裏に潜む喪失感、心の痛み、不安などさまざまなネガティブな感情に対する支援が必要なのです。もともと昭和39年の東京オリンピックを機に、街を放浪する酔っ払いの取り締まりの副産物として、初のアルコール専門病院が久里浜に建てられたという歴史がある2)くらいですので、「疾患」とはっきり診断できるのかどうか?非常に微妙な場合もあるのです。心理社会的背景に大きな要因を十分吟味する必要があると言えます。

アルコール依存症者には彼彼女らを取り巻く人々との相互作用が相互に影響しあっています。アルコール依存症の夫と、その世話に明け暮れることにパワーや存在感を得る妻のカップルの関係は共依存関係と言われ、その子どもたちもまた、両親の関係に巻き込まれ苦しんでいます。家族のそして社会の問題でもあるのです。

回復への道には、医療だけでは限界があり、自助グループの活動など、体験を共有し語る場が効果をあげています。そこでは、「言いっぱなし聞きっぱなし」と言う、一人一人が順番に語り、けれどそれに質問したり感想を言うなどのやり取りはしない方式を重視した運営がなされています。聴いてくれる人のいる場で体験を語ることが新たなストーリーを構築し、あるいは体験を語っている時にはアルコールなどに依存せずとも済むのです。

講義では若い人向けに、一気飲みによる急性アルコール中毒やアルコールハラスメントなどの話もしましたが、講義後にいただいた感想では、アルコール依存症の理解には疾患を超えた心理、家族、社会を視野に入れた理解が大事だと思ったという内容が比較的多く、多角的な見方をしてくださるきっかけになったようでした。私も真剣に聞いていただいた上コメントを頂けいい刺激と活力を得ることができました。

 

引用・参考

1)朝日新聞(2015)be between 読者とつくる やめられないものありますか? 

2)なだいなだ(1999)アルコーリズム 社会的人間の病気 朝日文庫 p.23