研究6   歴史教科書に学ぶデータの読み方

イギリスの歴史- 帝国の衝撃  は、イギリスの中学生向けの歴史教科書です。帝国としてのイギリスの歴史を、物語として書いた興味深い本でした。

中でも惹かれたのは、第8章 アイルランド: なぜ、人々はアイルランド大英帝国について異なる歴史を持つか です。

アイルランドは、古くからイングランドの征服に対して抵抗してきましたが、17世紀になると、イングランド人の入植が開始され、その後も武力衝突が繰り返されました。

教科書では、イギリス支配からの自由と、アイルランド独立を目指すナショナリストと、大英帝国のためにインドやフランスと戦うユニオニストを対立させ、両者の言い分を読者に考えさせます。

この章の課題は、[あなたがいったい何者であるかを決定づける最大の要素のひとつは、受け継がれてきた文化的遺産、すなわちあなたの歴史にあります。しかし、異なる人々が異なる観点から同じ出来事を見たときに、はたして歴史は同じものであり続けるのでしょうか?1)] というもので、それぞれの代表者、ユニオニストのイアンと、ナショナリストのパトリックそれぞれの考え方や、同じ時代や場所に生きた二人がそれぞれに記憶に残る出来事は何か?、それは両者で異なっているのか、具体的に考えさせていきます。

イアンの祖父はイギリス兵士として戦ったことがあり、一方パトリックの祖父はイースター蜂起、つまり独立アイルランド共和国の樹立を叫んだ一人でした。各々が背負ってきた歴史は全くと言っていいほど異なり、それがユニオニストvsナショナリストとして、アイルランドとの向き合い方に色濃く影響してきたようでした。

教科書は、両者を対比させるプロセスで、片方ではなく、それぞれに気持ちを寄せた理解をさせることによって、歴史は1つではない、多角的多層的見方を育てようとしています。

安倍首相とその祖父の関係について取り上げられていた記事とリンクするようですが、イアン/パトリックの例から、個人に生い立ちから染み付いてきた見方、考え方が積み重なって歴史が展開していくことを改めて実感。逆に個人のストーリーにも、歴史や社会の影響が強く反映されることについて確認しました。個人の歴史的研究データの読み方のヒントとなりました。

しかし、こんな教科書で中学生から学べば、思考力が高い人間に成長するでしょうね。こうした教科書の作り方にもまた、イギリスの歴史が影響しているのでしょうが。


文献)

ジェイミーバイロン他(2008)/前川一郎訳(2012). 世界の教科書シリーズ イギリスの歴史-帝国の衝撃 明石書店


 

精神障害者へのまなざし

昨日は、精神科、患者拘束1万人超す・・・10年間で2倍に というweb記事に頭を占拠されていました。即座に精神科病院の急性期化による閉鎖病棟の増加など、医療制度による影響が、ある意味色濃く反映されてきたのだろうかという考えがよぎりました。入院期間短縮と退院促進が病院の急性期化を作ってきた一因ですが、国内の多くの精神科病院は民間病院で、急性期病棟を開設し入院患者を確保しなければ経営が危ぶまれるという実情もあります。10年間で拘束や隔離が適用される自傷他害の恐れのある入院患者が2倍にも増加するというのは考えにくいように思います。

この記事では事実のみを短文で記載していたため、人によって受けとめ方は異なり、どのようにも読むことができると思いました。もしも、世の中に拘束しなければならない暴力的な患者が増えたというイメージの強化につながるなら、人間の恐怖に対する防衛がどのように表れるのか、恐ろしいことだと思います。また、医療従事者が不当に拘束していると読んだ場合、そうしたこともあるかもしれませんが、こうした事態と直面し解決しようと日々努力をしている精神科医療従事者への偏見につながるかもしれません。

翻って4月1日に障害者差別解消法が施行されました。これは、2006年に国連で採択、2008年に発効された「障害者の権利に関する条約(障害者権利条約)」による法律です。この条約は障害者への差別禁止や障害者の尊厳と権利を保障することを義務付けた国際人権法に基ずく人権条約です。日本では、2007年に条約を批准後、2013年に障害者差別解消法が制定されようやく施行されました。内閣府から出ているちらしでは、「この法律は、障害のある人もない人も、互いに、その人らしさを認め合いながら、共に生きる社会をつくることを目指しています」とうたっていますが、その根底にある人権の観点から、冒頭の患者拘束の実態を眺めると、現状では真逆の現実にあるのではないかと思い知らされます。

さて、人権に関連して、障害者への偏見がもっとも強いのは医療従事者だというのをしばしば耳にしますが、私の周りでも精神看護学や精神科看護にとっての最も大きな敵はすぐそばにいる他領域の教員たちだという意見をしばしば耳にします。新卒では精神科には就職しない方がいいと指導するという教員も意外に多いらしいです。しかし、精神科看護師は、一般病棟の看護師が習得していない患者理解や関わりの技術を持っています。まず初めに精神科に就職し新人として学ぶことは看護師としての成長を大きく促すでしょう。

患者拘束の増加の背景には、医療制度、人権意識など重く手の届かないように感じる問題が重なっていて非常に無力を感じます。障害者差別解消法がどのように効果を発揮するのか。

それでも、教育現場で精神看護学の位置づけと重要性について問いかけ、教育者自身の精神障害観や精神看護観に働きかけることは、私にでもできるかなと思います。

 

 

春めいてきました!

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年度末に向けて仕事の予定を詰め込んでいたところに、予定外の他の仕事が飛び込んできてしまい、それにも関わらず再調整ということに考えが及ばず、予定通りに進めたため、結果としてすべてクリアしたものの、今日になって自宅にも春が来ているのにやっと気がつきました

 

数週間前までは玄関前の植木鉢に花はほとんど見られなかったのに、あれこれ咲いていてびっくり。多くは母ですが、ラベンダーは私がもって来ました。でも、なんだかラベンダーは小さいですね。

 

連休で多くの皆さんは、あちこち出かけているかもしれません。私は昨日は仕事、今日はゆっくり、明日は出かける予定です。いつもは休みの日も家族の動きを気にして気が休まることがあんまりないのですが、今日は誰もいないため、心の中にもちょうどいい加減の空間ができ、そうしたら花が咲いておりました。

 

 

研究5 カテゴリー研究に終わっている という指摘に刺激されて

ある学会で質的看護研究は、カテゴリー分けに終わるものが多いと意見がありました。

フィールドワークやインタビューでのデータを基にして、あるいは事例を基にして質的に分析する研究は、国内看護研究では1970年代後半から、医学書院「看護研究」に登場しています。その前から、米国では1950年代にペプロウやレニンガーといった看護学者たちが、精神分析的、人類学的なバックグラウンドで、臨床看護の分析や看護理論開発に向けて質的な分析を行いましたが、その後、同じくワトソンが人間学的な対象の捉え方について言及しています。

国内では、1980年にANA(American Nurses Association)による「現にある、あるいはこれから起こりうるであろう健康問題に対する人間の反応を診断し、かつそれに対処することである」という看護の定義が、質的研究へと触発されるひとつの転機となっています。疾患ではなく、疾患を持つ人間全体を対象とする看護は、人間全体を理解するための研究枠組みを必要とするようになったのです。

けれども、量的な見方と同時に、質的な見方の重要性が認められるようになってきた昨今、その質的研究がカテゴリー分けに終わっているという指摘だったのです。

この問題提起に並行して、質的研究について学習を続けていたところ、やまだようこ氏のある論文1) 参考となって思考が進みました。参考になったのは、多重のナラティヴ・レベルについての図だったのですが、やまだ氏はそこで、ナラティヴとそれがつくりだされる現場、文脈について、(1)実在レベル、(2)相互行為レベル、(3)テクスト・レベル、(4)モデル・レベルの4段階に分け、(1)を当事者などが生きる「生きられた人生の文脈」の現場、(2)を当事者が研究者とともにナラティヴをつくる状況的文脈の現場、(3)を(2)で語られたナラティヴテクストを研究者が脱文脈化する研究者のテクスト行為の現場、(4)を研究者が他のナラティヴと比較しながら学問知の文脈に位置づける現場としています。

さて、これを眺めてみて、多くの看護研究は、(3)テクスト・レベルに留まってのではないか、そのために、他の分野からみると、カテゴリー分けで終わっていると見られてしまうのではないかと思いました。学問知といっても、看護は、対象が人間そのものであったり、その対象が生きる日々の日常生活であったりするために、統一された理論によって分析しつくせるものではありません。看護の現象を明らかにするためには、看護理論で取り上げられた既知の理論のみでなく、心理学、社会学、人類学、哲学と多くの分野の学問知によって、ナラティヴデータの意味を討論していく必要があるのです。

さらに、「日常生活の援助」の特殊性も影響しているのではないでしょうか。つまり、日常生活の援助の場合、言外、あるいは人と人の間にある、さまざまな想いは、言葉にされないまま、あいまいにされながら、患者と看護師の関係のなかに起こっている甘えのなかに、静かに置かれることによってこそ、ケアとなることが多いのだと思います。例えば、背中を拭くといった小さな援助のなかには、身体を清潔にするにとどまらず、触れる-触れられることによる安全感や安心感、それを通してつながる人間同士の絆の実感が生じていると思いますが、その想いは言葉にせず過ぎるなかにこそ、ケアの存在意義が生じるという営みなのです。こうしたケアの現象は、臨床看護の現場では意識されることが少なく、また言語化するニードさえも意識されていないのかもしれません。当然それを掘り下げて言語的に明らかにするような質的研究も少なくなるでしょう。むしろ、日常をつらつらと綴るような、カテゴリーの提示という方法で日常を描くことによって、看護の「間の現象」には触れず、「表の現象」を捉え続けているのかもしれません。

私自身は、掘り下げた研究をめざしてはいるのですが・・・。

 

参考)やまだようこ(2007)「質的研究における対話的モデル構成法」、質的心理学研究第6号、174-194、新曜社 

 

研究4 萬狂言を観て

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狂言なるものを初めて観ました。二人袴、節分など、およそ良く知られている演目で、昔の日常でかつ、今でも通じるコメディに笑わせてもらい、ほのぼのと豊かな時間でした。

国立能楽堂は、15年以上も通学通勤の通り道にあったのに、一度も入場したことがなく、初体験。こじんまりと暗闇に浮き上がる舞台は最初から最後まで設営を変えることもなく、そのシンプルさゆえか、何か居るだけで落ち着くような場所でした。

ところで幼少期は、住んでいた関西周辺の、史跡めぐり、寺社めぐりに週末のたびに連れ出されましたが、それより近所の崖で、木の化石だ!と友達と騒ぎあった歴史が面白く、考古学者になりたいなどと思ったものでした。

最近ライフヒストリー研究を始めたのですが、狂言を観ることを通して、木の化石エピソードを追想して、私にはちょっと身近なお馴染みの歴史を対象とする研究が合っているのかもしれないと思いました。