春めいてきました!

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年度末に向けて仕事の予定を詰め込んでいたところに、予定外の他の仕事が飛び込んできてしまい、それにも関わらず再調整ということに考えが及ばず、予定通りに進めたため、結果としてすべてクリアしたものの、今日になって自宅にも春が来ているのにやっと気がつきました

 

数週間前までは玄関前の植木鉢に花はほとんど見られなかったのに、あれこれ咲いていてびっくり。多くは母ですが、ラベンダーは私がもって来ました。でも、なんだかラベンダーは小さいですね。

 

連休で多くの皆さんは、あちこち出かけているかもしれません。私は昨日は仕事、今日はゆっくり、明日は出かける予定です。いつもは休みの日も家族の動きを気にして気が休まることがあんまりないのですが、今日は誰もいないため、心の中にもちょうどいい加減の空間ができ、そうしたら花が咲いておりました。

 

 

研究5 カテゴリー研究に終わっている という指摘に刺激されて

ある学会で質的看護研究は、カテゴリー分けに終わるものが多いと意見がありました。

フィールドワークやインタビューでのデータを基にして、あるいは事例を基にして質的に分析する研究は、国内看護研究では1970年代後半から、医学書院「看護研究」に登場しています。その前から、米国では1950年代にペプロウやレニンガーといった看護学者たちが、精神分析的、人類学的なバックグラウンドで、臨床看護の分析や看護理論開発に向けて質的な分析を行いましたが、その後、同じくワトソンが人間学的な対象の捉え方について言及しています。

国内では、1980年にANA(American Nurses Association)による「現にある、あるいはこれから起こりうるであろう健康問題に対する人間の反応を診断し、かつそれに対処することである」という看護の定義が、質的研究へと触発されるひとつの転機となっています。疾患ではなく、疾患を持つ人間全体を対象とする看護は、人間全体を理解するための研究枠組みを必要とするようになったのです。

けれども、量的な見方と同時に、質的な見方の重要性が認められるようになってきた昨今、その質的研究がカテゴリー分けに終わっているという指摘だったのです。

この問題提起に並行して、質的研究について学習を続けていたところ、やまだようこ氏のある論文1) 参考となって思考が進みました。参考になったのは、多重のナラティヴ・レベルについての図だったのですが、やまだ氏はそこで、ナラティヴとそれがつくりだされる現場、文脈について、(1)実在レベル、(2)相互行為レベル、(3)テクスト・レベル、(4)モデル・レベルの4段階に分け、(1)を当事者などが生きる「生きられた人生の文脈」の現場、(2)を当事者が研究者とともにナラティヴをつくる状況的文脈の現場、(3)を(2)で語られたナラティヴテクストを研究者が脱文脈化する研究者のテクスト行為の現場、(4)を研究者が他のナラティヴと比較しながら学問知の文脈に位置づける現場としています。

さて、これを眺めてみて、多くの看護研究は、(3)テクスト・レベルに留まってのではないか、そのために、他の分野からみると、カテゴリー分けで終わっていると見られてしまうのではないかと思いました。学問知といっても、看護は、対象が人間そのものであったり、その対象が生きる日々の日常生活であったりするために、統一された理論によって分析しつくせるものではありません。看護の現象を明らかにするためには、看護理論で取り上げられた既知の理論のみでなく、心理学、社会学、人類学、哲学と多くの分野の学問知によって、ナラティヴデータの意味を討論していく必要があるのです。

さらに、「日常生活の援助」の特殊性も影響しているのではないでしょうか。つまり、日常生活の援助の場合、言外、あるいは人と人の間にある、さまざまな想いは、言葉にされないまま、あいまいにされながら、患者と看護師の関係のなかに起こっている甘えのなかに、静かに置かれることによってこそ、ケアとなることが多いのだと思います。例えば、背中を拭くといった小さな援助のなかには、身体を清潔にするにとどまらず、触れる-触れられることによる安全感や安心感、それを通してつながる人間同士の絆の実感が生じていると思いますが、その想いは言葉にせず過ぎるなかにこそ、ケアの存在意義が生じるという営みなのです。こうしたケアの現象は、臨床看護の現場では意識されることが少なく、また言語化するニードさえも意識されていないのかもしれません。当然それを掘り下げて言語的に明らかにするような質的研究も少なくなるでしょう。むしろ、日常をつらつらと綴るような、カテゴリーの提示という方法で日常を描くことによって、看護の「間の現象」には触れず、「表の現象」を捉え続けているのかもしれません。

私自身は、掘り下げた研究をめざしてはいるのですが・・・。

 

参考)やまだようこ(2007)「質的研究における対話的モデル構成法」、質的心理学研究第6号、174-194、新曜社 

 

研究4 萬狂言を観て

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狂言なるものを初めて観ました。二人袴、節分など、およそ良く知られている演目で、昔の日常でかつ、今でも通じるコメディに笑わせてもらい、ほのぼのと豊かな時間でした。

国立能楽堂は、15年以上も通学通勤の通り道にあったのに、一度も入場したことがなく、初体験。こじんまりと暗闇に浮き上がる舞台は最初から最後まで設営を変えることもなく、そのシンプルさゆえか、何か居るだけで落ち着くような場所でした。

ところで幼少期は、住んでいた関西周辺の、史跡めぐり、寺社めぐりに週末のたびに連れ出されましたが、それより近所の崖で、木の化石だ!と友達と騒ぎあった歴史が面白く、考古学者になりたいなどと思ったものでした。

最近ライフヒストリー研究を始めたのですが、狂言を観ることを通して、木の化石エピソードを追想して、私にはちょっと身近なお馴染みの歴史を対象とする研究が合っているのかもしれないと思いました。

合唱

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時間に隙間がある時には、子どもの行事に参加するようにしているのですが、先日は、高校生の息子の合唱コンクールに行ってきました。

全4時間に、16クラスが競うコンクール。12月から練習を開始したということでしたが、結構難しい曲が続き、短期間によくぞここまでと感心しました。

課題曲と自由曲の2曲で構成されていましたが、自由曲では文字通り、自由をテーマにした選曲が多く、若さならでは!と思いました。聴いていると、声量はあまりないけれど、綺麗なハーモニーのクラスが多く、聴く側の感情に繊細に響いてきました。

三好達治の詩をつかった鴎、この戦後に自由を歌った曲が心に残りました。自分のなかに、自由を感じたり、期待することが少なくなった、とはたと気づき、けれどもこの言葉を耳にすることで、光った緩やかな何かを思い出せそうな気もしてきました。

ハーモニーのなかにいる、彼/彼女らは、この言葉の響きをどのように感じていたのでしょうか。

研修講師

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浜松から路線バスで4-50分の病院に、看護管理者を対象としたグループダイナミクスについての講義にでかけてきました。バスのいい案配の揺れにうとうとしながら、昼過ぎに到着。

半日の講義と演習の中でできることは僅かで、今回もむしろ私の方が学ぶことが多かったです。自分で同じ内容の講義を行っている他の研修プログラムとの比較から、各研修プログラムに集合したメンバー特性が、演習プロセスに現れていることを発見! いい刺激によって、日頃、動かなくなっている頭も心も解きほぐしていただきました。

この病院、昭和初期に結核カリエス者の保護事業から設立、単科精神科病院を経て総合病院に増床した病院でした。休憩時間に師長さんが、他に先駆けて新しいことに取り組むことが特徴!と、その経緯を教えてくれましたが、病院入口に設立同時からの写真が掲示されているのも見て、昔はいかにも人里離れたこの地域の歴史にも関心を持ちました。




出会ってよかったもの

BOOKS19 ー特集恒例アンケート 今年の収穫をーでは、「本」と「本以外」の今年出会ってよかったものが題材のアンケート結果がまとめられていました。アンケートの対象は原稿依頼、本関係、本誌の関係者ということですが、ライター、カメラマン、画家、シンガー、会社員、図書館員、事務職員と職業はさまざま。

「本」はともかく、「本以外」というところにまず目が向いてめくってみましたところ、・・・それでも「本」と上げる人(笑)、他には演劇、映画、本関係の人々、楽器、商店街などなど。

ところで私はどうだったかなあ。やはり今年は、何人かの知人に引っ張り出してもらって、あちこち出かけたことだったかなと思います。岬カフェだったり、歌舞伎だったり、演劇だったり、映画観賞だったり、普段はどちらかというと引きこもりがちで、仕事と家の往復で精一杯だったところに、違う刺激とリズムが入ってきて、それまでと異なる生活のリズムを追加することができました。こうしてブログに投稿することもそれまでの私には無かったことでした。目を通してくださった皆さま、ありがとうございます。

「本」の出会いでは、BOOKS19では、見知った本がいくつかある中、断片的なものの社会学ー岸政彦、を数人が挙げていて目に留まりました。わたしもこれは読んでみたいですね。エッセイ風にまとめられた新鮮さという感想が載せらていましたが、私の方、職場で積読になっているかもしれません。年始早々探してみなくてはと思っております。

じっくりと読む時間を取らなかった一年でしたが、個人的には「読む時間」アンドレ・ケルテス、これは良かったです。本を読む人々を写した小さな写真集で、見ていてふとなごみ微笑んでしまう本でした。ネット中心の社会に移行とはいえ・・・紙もやはりいいですね。

ではよいお年をお迎えください。