夏に向かって


慌ててばかりいる日々。この週末は小休止で気が抜けたように過ごしていました。周囲の変化にも目を向けないと、と思って、がんばって、室内からスマホカメラを構えて2枚。紫陽花は巨大化しオレンジ色の蘭が咲いています。

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こちらは、みずひき。よーく見ないと気がつかず通り過ぎてしまいそう。昨年より薄いピンクです。
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花たちのように、暑さに負けないように。明日からまた一週間が始まります。

看護教育7 専門職業大学と、看護師・介護士・保育士 養成課程共通化と

実践的職業教育について、このブログで取り上げてから、1年以上経ちましたが、

http://blog.hatena.ne.jp/keikonsakaki/keikonsakaki.hatenablog.com/edit?entry=8454420450089087984

最近、さらなる動きが起こってきています。

3月の、文科省有識者会議からの、専門職業大学たる、教育課程の優れた専門学校からの移行を想定とし、修業年限2~4年で学位を授与する大学の類型を設ける旨の報告を受け1)、中央教育審議会が、職業教育に特化した新しい種類の大学をつくるよう、5月に文部科学相に答申しました2)。もちろん国の助成対象ともなる大学です。文科省は、2019年の開学を目指し、通常国会で学校教育法改正案を提出する考えだそうです。

並行して、厚労省から、看護師、介護福祉士、保育士などの医療・福祉系人材養成課程の一部を共通化する方針が固められています3)。こちらは、2021年頃の移行を目指しています。「基礎課程」の共通化によって、職業の選択肢を広げ、基礎課程修了後に資格ごとの専門課程を経て国家資格を取得する仕組みへの改変です。

福祉職は賃金が低く、人材不足が続いているものの、例えば介護職から看護師に転職する場合、現行の課程では、新たに3年制の看護師の課程に入学する必要があるため、こうした複雑さを回避するメリットがあるとも言うのです。「ニッポン1億総活躍プラン」とも関連づけられています。

2030年には医療・福祉系人材がさらに200万人必要とされると言われていますが、看護師については2008年から始まったEAP(経済連携協定)が進められてきたものの、アジアからの看護職の日本の看護師国家試験合格率が低く、人材交流は進まないままです。こうした状況下で、何とか国内で人材確保をというあがきのようにも感じます。

看護教育には、大学も短大も専門学校でも、厚労省保健師助産師、看護師学校養成所指定規則のしばりがあるために、こうした基礎課程の共通化は、専門職業大学指向と並行して、看護大学教育にも影響して来るのではないかと推測されます。

さてはて、看護教育の質の行く末はどこに向かうのでしょうか。病む、痛みと対峙しておられる人間に直接触れる、そして、科学技術の発展との接点で、さまざまな倫理的な場面で判断する必要のある職業に、即活用できる、職業につながりやすい知識とスキルの教育で対応しようとしているのですから…。成功したかのような錯覚に陥り、大切なものを捨ててしまい、将来性を閉ざしてしまうようなことがないといいなあと、祈る思いです。卒後の、即戦力としての問題解決力にとどまらず、幅広く深い思考力を培うのが大学であるけれど、その効果は卒業時に即、測定できるものではないという共通認識は、どこに行ってしまったのでしょう。

 

参考

1)文科省有識者会議、「専門職の大学」新設提言 :日本経済新聞

2)専門職業大学創設を答申 文科省、3年後の開学目指す:朝日新聞デジタル

3)看護師・介護福祉士・保育士… 養成課程を一部共通化へ:朝日新聞デジタル

紫陽花

沖縄は梅雨入りと耳にしましたが、はやくも都内でも紫陽花が開花しだしました。写真の紫陽花、これから色が変化していくのでしょうけれど、今のところ、アイボリーと淡いブルーでなかなかいいな! と思いました。

 

花のほうが、季節の先頭を走っているなと感じさせられます。雨上がりの水滴が残っているともっと紫陽花らしいかなと思うと楽しみです。けれども、今年もそろそろ半分終わりかと思って、多少気ぜわしい気持ちにもなりました。

 

 

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澪から幸へ

髙田郁さんの小説からは、江戸時代の下町人情にほっとさせられる情景が浮かんできて、それが好きであれこれ読んできましたが、最近出版された「あきない世傳金と銀」、、、今どきの社会変化に合わせてか?主人公のキャラクターが変ったなあと、そして少し前の「みをつくし料理帖」シリーズ全10巻から一つの時代が去っていったようなさみしさを感じました。

みをつくし料理帖は、澪という女の子が厳しい修行に耐え、料理人として成長していく物語で、料理人という専門職が主人公だったのですが、「あきない世傳金と銀」は、商家で女衆として奉公するなかで、番頭治兵衛に認められ、商いに心開かれていく、幸の物語。商いは詐なのか生涯をかける道なのか。昨今の格差社会に否応なく考えさせられるお金のテーマです。商道も、一つの道を見据え極める、道ですが、料理道とは異なる、テーマの現在性を感じています。

澪は、水害で親を亡くし天涯孤独となり料理屋に奉公したのですが、その生い立ちと立ち直りは、震災など日本国内に続いた天災からやはり立ち直って来られた方々への応援歌として重なりました。今度の、幸は、学者の父と兄を病で亡くし、母子生活の経済的困窮の末、呉服商に奉公することになった身の上で、さらにさらに最近の貧困家庭を思わせる設定です。

さて、世傳とは、代々にわたって伝わっていく、という意味で、小説では幸の商道とその行く末への広がりへの願いがこもっているそうです。「買う幸い、売っての幸せ」の実現目指し、逞しく歩んでいく幸に何かを投影して、私、またこのシリーズも読み進みそうですが。今の所、何かを失なった感が尾を引いています。何だろう?

みなさんぜひお読みください。

研究7 オーラル・ヒストリーと社会

先日の中学生対象の教科書、「イギリスの歴史」では、生徒にオーラル・ヒストリーを促す質問事項を考えさせ、物語としての歴史を理解できるように構成されていました。

オーラル・ヒストリーは、御厨1) によると、「公人の、専門家による、万人のための口述記録」だと言います。日本の古いタイプの公職経験者は「言わず語らず」を伝統としてきましたが、イギリスでは、有名な政治家は回顧録を書いてはじめて職務を終えるとされ、将来歴史が掘り起こされ判断される際に、その記録が功を奏するのだそうです。またアメリカには、組織の歴史を書くパブリック・ヒストリアンという範疇があり、個人がずっと一つの会社、一つの組織にいるということが無いアメリカ社会の組織において、ヒストリーをストックしておく機能となっているそうです。こちらは訴訟社会ならではらしいですが。

日本では、むしろ無名の人々の聞き書きによって、江戸の暮らしや明治の暮らしについて、市井の人々の記録が蓄積されてきたそうです。それでも、高度成長が停滞をみせ右肩上がりの経済ばかりではない、となった時、今までは何だったのかと過去に関心が向き「言わぬが花」あるいは「いわないことへの価値」を抜けていくことになりました。新聞や雑誌の発達にも後押しされたようです。また、昭和も30年も経てば昔話をするように変化が生じ、高度成長期にはじめて戦前のことが語られるようにもなったそうで、語りとして表現されるには時間の経過が必要なことがわかります。

そもそも、オーラル・ヒストリーは、御厨氏の定義よりもずっと以前に、無文字社会において、口頭伝承で伝わっている世界を記録する方法として生まれてきました。文化人類学者はテープレコーダーを持ってあらゆる部族の生活を見聞きして記録を取ったのです。

「イギリスの歴史」で生徒に課題として提示されたオーラル・ヒストリーの質問事項は、アフリカ系カリブ海移民やアジア系移民が対象になっていました。英語では十分なコミュニケーションが取れない可能性が強い対象です。こうして異文化の人々の語りを聞き、社会的弱者の視点から歴史を読み解く姿勢を持つことは、同化を強要しない寛容型社会を創り出すもととなるのではないでしょうか。

オーラル・ヒストリーによって、時代に流れる雰囲気や文脈を知ることによって、当時の文書を読み解く感覚もまた養われると思いました。

 

参考・引用

1)御厨貴(2002)オーラル・ヒストリー 現代史のための口述記録 中公新書