差し出すことと、空になること
コロンビア大学 リタ・シャロン氏による「ナラティブ・メディスン」のフォーラムに参加しました。ナラティブ・メディスンは、病いの物語と対話における物語能力に焦点を当てて、それらを細やかに読み解く力を育むプログラムで、シャロン氏によって開発されました。プログラムは2日間に亘って、立命館大学の斎藤清二氏の講義と、シャロン氏による実践ワークが交互に進み、120名以上にも上る参加者でした。
医療においては、1991年にGuyattによって提唱された Evidence Based Medicineが主導していて、科学的根拠を持った医療を目指していますが、一方で、病気になった人々は、その体験を日々に常に織り込んで人生を創っているので、その物語化の支援も大切です。1998年にGreenhaighらによって提唱された Narrative Based Medicine がその部分を支えてきました。この流れにあるのが、今回私が参加したフォーラムです。
Narrative Based Medicineは、患者が自身の人生の物語を語ることを助け「壊れてしまった物語をその人が修復することを支援する臨床行為」と定義づけられています1)。その根底として、「医学的な仮説、理論、病態生理は、社会的に構成された物語であるとみなされ、常に複数の物語が共存することが許容され」ています。
患者が織りなす物語の再構築を支援するには、援助者自身が、まずは自分を解放し創造力を伸ばす体験をすることが大事なのですが、フォーラムでは、例えば、夏目漱石の小説の一節を熟読後、自分の感情や患者の思い出、そして再生についての考えを記述してみたあとで、参加者3人グループでシェアしたり、あるいは、写真や絵画を眺めたり、音楽鑑賞をして、それも3人でシェアし、さらには会場全体でシェアしたりという流れで進んでいきました。
テーマに関心を寄せた参加者の集まりだった影響は大きいと思いますが、他の皆さんの感想を聞かせて頂きながら、同じ一節を読んでも、同じ音楽を聞いていても、ほんとうに様々な受けとめかたや想像があるのだということを、改めて実感せられました。
シャロン氏は、医療に携わる中で難しい点は、「まるごと患者に差し出すこと」、それには「自分を空にすること」、というパラドックスが必要であることだと述べておられました。差し出すことによって、患者の容器になる、けれどもそれには自分が空になって、機能を果たせる容器になる必要があるということでしょう。空になるには、まずは自分自身が自分のなかにあるものを外に出して表現し、誰かにシェアしてもらう必要があります。今回のフォーラムは、知識を学ぶことに加えて、表現したものをシェアし合う実践的な方法で作られていたために、自分が想像したものを受けとめてもらうこともでき、癒される体験もしました。もちろん、想像するプロセスで自分と向き合ったことでの疲労もありましたが。これが空になる体験であったのでしょう。
さて、このフォーラムの前に、主催センター理事長の日野原重明氏の挨拶があったのですが、104歳をむかえ、車椅子で登場した氏は、「今日は特別のクッションを使っていることで、新しい日野原として皆さんの前に立っている」とおっしゃいました。背筋がまっすぐになるということで、確かに優れたクッションのようです。その挨拶の時には、ユーモラスな感じに可笑しくて笑ってしまいましたが、フォーラムが進むにつれ、フォーラムが私自身のクッションになっていくことに気がつき、開会の挨拶が象徴していたものにどきっとしました。
参考:
1)Robert B.Taylor(2010)Medical Wisdom and Doctoring
ニュートラル?
最近、無感情を習慣にすることがリーダーシップの要素1)だという記事を読み、考えさせられました。悩みの最大の理由は「マイナスの感情」だけれども、その感情を癒す秘訣は「感情のない状態を取り戻す」ことだと言うのです。
確かに振り返ってみると、「無心」に取り組むことによって技術が上達するという体験は多くの人が体験していることで、その時の心持ちが「感情のない状態」と形容されているのでしょう。宗教的な境地に近いとも言えます。ニュートラルな状態が大事なゆえんです。しかし、現代人は、快と不快の間の大きな反復横とびで疲れきっているのだと記事では述べているのです。なるほど!
けれども、一つのグループの人間関係を思い浮かてみると、全員がニュートラル人間ということはありません。ニュートラルな人がいると、そばには感情表出型の人間がいて、補完的な人間関係が生じ、ニュートラルな人に代わって、感情表出型の人がニュートラルの人の気持ちを代弁的に表現しているのです。
しばらく前には「感情を素直に表現できる人は強い」と言われていたのに、時代が変わればニュートラルが大事・・・見方も変わるものだと多少の疲労感を持ちました。
ところで、経営学の感情研究の第一人者であるシーガル・バーセイドは、企業文化には認知的文化と情緒的文化があり、組織の成功に導く情緒的文化の意味を取り上げて解説しています2)。ここで認知的文化というのは、目標達成の指針としてメンバー間で共有される知的な理念、規範、成果、前提などです。一方、情緒的文化は、メンバーが共有する情緒的な理念、規範、成果、前提などで、それによって職場で構成員がどのような感情を示すか、抑えた方が無難な感情は何かが決まるそうです。
そして、企業では情緒文化に対して注意が払われることが稀であるばかりでなく、見落とされてしまい弊害を生むことが多いのだそうです。情緒的文化の多くは身体言語、つまり非言語な表情やゼスチャーで示されるために見落とされやすく、それに対して従業員の感情を「ニコニコ」アプリ(フェイススケールでの感情評価)への気分登録で把握する企業もあるようですが、そうした企業は少数派にとどまっているようです。しかしながら、人材や組織の動機付け要因の柱を成す感情部分をないがしろにしては、活性化が望めません。
楽しむ文化、友愛の文化をつくり、いつの社会にも避けることができない不安の文化とのバランスを取ることが必要なのです。
しかし、バランスと言っても、感情の無い状態を作りだすのではなくて、流れる時間の中で、感情的になったり少し抑制的になったり、時間の長期的な流れの中でバランスが出来てくることを目指すのがいいのではないかなと思います。その動きのある世界でこそ、ニュートラルで動きの無い世界ではなく、豊かな人間関係と文化がつくられるのではないでしょうか。
日々の生活ではさまざまな世俗的な刺激があって、揺られないことの方が不自然です。揺られることが自然で、けれでも1週間とか1ヶ月とか1年の間でまた落ち着くことがあるというような、長期的なバランスが生じるようになり、人々が感情的にいったんは燃え尽きてもまた安定がやってくることに希望を持てるような文化創りが大事かなと思います。
文献
1)心が強い人は「無感情」を習慣にしている | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
2)シーガル/バーセイド, オリビアA・オニール/有賀裕子訳. 組織に必要な感情のマネジメント.Harvard Business Review 41(7),82-94
琵琶湖
看護教育7 専門職業大学と、看護師・介護士・保育士 養成課程共通化と
実践的職業教育について、このブログで取り上げてから、1年以上経ちましたが、
http://blog.hatena.ne.jp/keikonsakaki/keikonsakaki.hatenablog.com/edit?entry=8454420450089087984
最近、さらなる動きが起こってきています。
3月の、文科省有識者会議からの、専門職業大学たる、教育課程の優れた専門学校からの移行を想定とし、修業年限2~4年で学位を授与する大学の類型を設ける旨の報告を受け1)、中央教育審議会が、職業教育に特化した新しい種類の大学をつくるよう、5月に文部科学相に答申しました2)。もちろん国の助成対象ともなる大学です。文科省は、2019年の開学を目指し、通常国会で学校教育法改正案を提出する考えだそうです。
並行して、厚労省から、看護師、介護福祉士、保育士などの医療・福祉系人材養成課程の一部を共通化する方針が固められています3)。こちらは、2021年頃の移行を目指しています。「基礎課程」の共通化によって、職業の選択肢を広げ、基礎課程修了後に資格ごとの専門課程を経て国家資格を取得する仕組みへの改変です。
福祉職は賃金が低く、人材不足が続いているものの、例えば介護職から看護師に転職する場合、現行の課程では、新たに3年制の看護師の課程に入学する必要があるため、こうした複雑さを回避するメリットがあるとも言うのです。「ニッポン1億総活躍プラン」とも関連づけられています。
2030年には医療・福祉系人材がさらに200万人必要とされると言われていますが、看護師については2008年から始まったEAP(経済連携協定)が進められてきたものの、アジアからの看護職の日本の看護師国家試験合格率が低く、人材交流は進まないままです。こうした状況下で、何とか国内で人材確保をというあがきのようにも感じます。
看護教育には、大学も短大も専門学校でも、厚労省の保健師、助産師、看護師学校養成所指定規則のしばりがあるために、こうした基礎課程の共通化は、専門職業大学指向と並行して、看護大学教育にも影響して来るのではないかと推測されます。
さてはて、看護教育の質の行く末はどこに向かうのでしょうか。病む、痛みと対峙しておられる人間に直接触れる、そして、科学技術の発展との接点で、さまざまな倫理的な場面で判断する必要のある職業に、即活用できる、職業につながりやすい知識とスキルの教育で対応しようとしているのですから…。成功したかのような錯覚に陥り、大切なものを捨ててしまい、将来性を閉ざしてしまうようなことがないといいなあと、祈る思いです。卒後の、即戦力としての問題解決力にとどまらず、幅広く深い思考力を培うのが大学であるけれど、その効果は卒業時に即、測定できるものではないという共通認識は、どこに行ってしまったのでしょう。
参考
1)文科省有識者会議、「専門職の大学」新設提言 :日本経済新聞