精神保健看護6 生きるを取り戻す

子供が小さいころ、少年野球の試合の応援に来たグラウンドです。雨で誰もプレーしていませんでしたがとても懐かしかった。

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すぐお隣にある、区の集会所です。あいにくの雨だったのですが、沢山の人でにぎわっていました。高齢者が多かったように思います。もっとゆっくり見学してこればよかった・・・。

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さて今回は、著書「プシコ ナウティカ」と 映画「千と千尋の神隠し」から、「生きていること」について思考する試みの講義があると聞いて、やってきました。

映画は2001年に上映されたジブリ映画で、私も複数回見て感動し、とても印象に残っていましたし、著書の方は、その中の一節、イタリアの精神保健のモットーであるという、「近づいてみれば誰ひとりまともな人はいない」が、脳裏に焼き付いていたのでした。

精神障害者の有力化とは何か、それには生活者として生きることを取り戻す場と人が必要であること、しかし現代社会は果たしてそのようにあるだろうか?「生の危機」にあるひとりの人間としてではなく、疾患として「モノ化」した精神障害者の側面のみに関わっているところはないだろうか? 刺激的な講義にさまざまな疑問が浮かびました。

患者さんと話をしていて、精神的に健康なのは、医療従事者である私か、患者さんか、果たしてどちらなのだろうか?と疑問に感じた瞬間を思い出し、最近の精神医療では早期退院支援が進み、リカバリーやレジリエンスなどその人自身の有力化に力を入れた動きが強まっているものの、一方では、病院の急性期化による閉鎖病棟の増加に伴って、閉鎖病棟への任意入院患者数が増え、強制入院の問題も絶えず聞かれている実情に、胸が痛む思いでした。

ところで、映画のなかで、千尋は自身の心の奥底に戻って行って、さまざまな痛みを体験し乗り越え再び戻ってきます。こうした有力化のプロセスで、千尋のように「腑に落ちる」体験をじっくりと進むことを援助者として支えられるようになること、それには、援助する者自身が「腑に落ちる」体験の中に身を置くことを覚えることが大事なのでしょう。

「近づいてみれば誰ひとりまともな人はいない」・・・どんなにまとも/普通/正常に見える人でも、近くからよく見てみると、「正常さ」は雲散霧消し、その人が人生のなかで身につけてきた一連の特異性がその人独特の「味」になっている・・・という意味なのだそうですが、こうした見方からは、精神障害者であるかないかを越えた人間理解と共同性が生まれると思います。千尋の体験も、千尋自身が独特な味を持つ青年に成長するために必要なものであったのではないでしょうか。

とても無力に感じつつ日々を送っていた私に励みになる貴重な時間でした。

 

 

一輪

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のぼたんの花。沢山咲いたら写真に撮ろうと思って待ち構えていたのですが、一輪咲くと雨で、また一輪咲くと台風で散ってしまい、三輪目です。きっと、一輪だけで撮影して欲しいのだと思って。自己主張が強いようです。

差し出すことと、空になること

コロンビア大学 リタ・シャロン氏による「ナラティブ・メディスン」のフォーラムに参加しました。ナラティブ・メディスンは、病いの物語と対話における物語能力に焦点を当てて、それらを細やかに読み解く力を育むプログラムで、シャロン氏によって開発されました。プログラムは2日間に亘って、立命館大学の斎藤清二氏の講義と、シャロン氏による実践ワークが交互に進み、120名以上にも上る参加者でした。

医療においては、1991年にGuyattによって提唱された Evidence Based Medicineが主導していて、科学的根拠を持った医療を目指していますが、一方で、病気になった人々は、その体験を日々に常に織り込んで人生を創っているので、その物語化の支援も大切です。1998年にGreenhaighらによって提唱された Narrative Based Medicine がその部分を支えてきました。この流れにあるのが、今回私が参加したフォーラムです。

Narrative Based Medicineは、患者が自身の人生の物語を語ることを助け「壊れてしまった物語をその人が修復することを支援する臨床行為」と定義づけられています1)。その根底として、「医学的な仮説、理論、病態生理は、社会的に構成された物語であるとみなされ、常に複数の物語が共存することが許容され」ています。

患者が織りなす物語の再構築を支援するには、援助者自身が、まずは自分を解放し創造力を伸ばす体験をすることが大事なのですが、フォーラムでは、例えば、夏目漱石の小説の一節を熟読後、自分の感情や患者の思い出、そして再生についての考えを記述してみたあとで、参加者3人グループでシェアしたり、あるいは、写真や絵画を眺めたり、音楽鑑賞をして、それも3人でシェアし、さらには会場全体でシェアしたりという流れで進んでいきました。

テーマに関心を寄せた参加者の集まりだった影響は大きいと思いますが、他の皆さんの感想を聞かせて頂きながら、同じ一節を読んでも、同じ音楽を聞いていても、ほんとうに様々な受けとめかたや想像があるのだということを、改めて実感せられました。

シャロン氏は、医療に携わる中で難しい点は、「まるごと患者に差し出すこと」、それには「自分を空にすること」、というパラドックスが必要であることだと述べておられました。差し出すことによって、患者の容器になる、けれどもそれには自分が空になって、機能を果たせる容器になる必要があるということでしょう。空になるには、まずは自分自身が自分のなかにあるものを外に出して表現し、誰かにシェアしてもらう必要があります。今回のフォーラムは、知識を学ぶことに加えて、表現したものをシェアし合う実践的な方法で作られていたために、自分が想像したものを受けとめてもらうこともでき、癒される体験もしました。もちろん、想像するプロセスで自分と向き合ったことでの疲労もありましたが。これが空になる体験であったのでしょう。

さて、このフォーラムの前に、主催センター理事長の日野原重明氏の挨拶があったのですが、104歳をむかえ、車椅子で登場した氏は、「今日は特別のクッションを使っていることで、新しい日野原として皆さんの前に立っている」とおっしゃいました。背筋がまっすぐになるということで、確かに優れたクッションのようです。その挨拶の時には、ユーモラスな感じに可笑しくて笑ってしまいましたが、フォーラムが進むにつれ、フォーラムが私自身のクッションになっていくことに気がつき、開会の挨拶が象徴していたものにどきっとしました。

 

参考:

1)Robert B.Taylor(2010)Medical Wisdom  and Doctoring

 

 

 

 

夏と秋のあいだ

台風9号が去り今日はそれほど大きな天候の変化もみられませんでした。見上げると、夏とも秋とも言えないような、少しおどろおどろしいような雲と空です。

 

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7月下旬まで、ときどき涼しい日もあったので、今夏は短いように感じますが、実際はどうなのでしょうか。豪雨も、季節とはあまり関係なくやってくるこの頃、季節の移り変わりの感覚も狂ってしまいそうです。

 

空を見上げてみたくなったのは、なにか空虚な心持ちになったからで、そして、はっきりしない季節と同じく、得ているものがあるのに、言葉にあげる気力がはっきりしなくて、その答えが見つかるような気がしたからだったからかもしれません。

ニュートラル?

最近、無感情を習慣にすることがリーダーシップの要素1)だという記事を読み、考えさせられました。悩みの最大の理由は「マイナスの感情」だけれども、その感情を癒す秘訣は「感情のない状態を取り戻す」ことだと言うのです。

確かに振り返ってみると、「無心」に取り組むことによって技術が上達するという体験は多くの人が体験していることで、その時の心持ちが「感情のない状態」と形容されているのでしょう。宗教的な境地に近いとも言えます。ニュートラルな状態が大事なゆえんです。しかし、現代人は、快と不快の間の大きな反復横とびで疲れきっているのだと記事では述べているのです。なるほど!

けれども、一つのグループの人間関係を思い浮かてみると、全員がニュートラル人間ということはありません。ニュートラルな人がいると、そばには感情表出型の人間がいて、補完的な人間関係が生じ、ニュートラルな人に代わって、感情表出型の人がニュートラルの人の気持ちを代弁的に表現しているのです。

しばらく前には「感情を素直に表現できる人は強い」と言われていたのに、時代が変わればニュートラルが大事・・・見方も変わるものだと多少の疲労感を持ちました。

ところで、経営学の感情研究の第一人者であるシーガル・バーセイドは、企業文化には認知的文化と情緒的文化があり、組織の成功に導く情緒的文化の意味を取り上げて解説しています2)。ここで認知的文化というのは、目標達成の指針としてメンバー間で共有される知的な理念、規範、成果、前提などです。一方、情緒的文化は、メンバーが共有する情緒的な理念、規範、成果、前提などで、それによって職場で構成員がどのような感情を示すか、抑えた方が無難な感情は何かが決まるそうです。

そして、企業では情緒文化に対して注意が払われることが稀であるばかりでなく、見落とされてしまい弊害を生むことが多いのだそうです。情緒的文化の多くは身体言語、つまり非言語な表情やゼスチャーで示されるために見落とされやすく、それに対して従業員の感情を「ニコニコ」アプリ(フェイススケールでの感情評価)への気分登録で把握する企業もあるようですが、そうした企業は少数派にとどまっているようです。しかしながら、人材や組織の動機付け要因の柱を成す感情部分をないがしろにしては、活性化が望めません。

楽しむ文化、友愛の文化をつくり、いつの社会にも避けることができない不安の文化とのバランスを取ることが必要なのです。

しかし、バランスと言っても、感情の無い状態を作りだすのではなくて、流れる時間の中で、感情的になったり少し抑制的になったり、時間の長期的な流れの中でバランスが出来てくることを目指すのがいいのではないかなと思います。その動きのある世界でこそ、ニュートラルで動きの無い世界ではなく、豊かな人間関係と文化がつくられるのではないでしょうか。

日々の生活ではさまざまな世俗的な刺激があって、揺られないことの方が不自然です。揺られることが自然で、けれでも1週間とか1ヶ月とか1年の間でまた落ち着くことがあるというような、長期的なバランスが生じるようになり、人々が感情的にいったんは燃え尽きてもまた安定がやってくることに希望を持てるような文化創りが大事かなと思います。

 

文献

1)心が強い人は「無感情」を習慣にしている | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

2)シーガル/バーセイド, オリビアA・オニール/有賀裕子訳. 組織に必要な感情のマネジメント.Harvard Business Review 41(7),82-94