光のアトリエー人間としての回復

渋谷のユーロスペースで「ニーゼと光のアトリエ」という映画が上映されています。1944年のブラジルが舞台の実話で、電気ショック療法やロボトミーが最新治療として日々行われていた時代に、女性医師ニーゼが芸術療法を通した人道的治療を通して慢性重症精神科患者を回復に導く物語です。

最新の治療道具としてのアイスピックの代わりに絵筆を治療道具として患者に与え(クライエントと呼ぶように看護師に働きかけていました)、自由を与え、そして彼らの言葉に耳を澄ませる気力の力強さは絶大で、途中イタリアの精神科病院を廃止に導いたバザーリアを思い出しましたが、そのもっともっと前の時代の試みとあってさらに驚愕の思いで観てきました。

絵の中にはクライエントの心理が反映され、そして書き重ねるごとに、ばらばらであった絵にまとまりが生まれてくる。やがて曼荼羅と言える模様が沢山現れていることを発見し、ニーゼはそれをカール・グスタフユングに送ったようですが、その後もユングとの親交が続いたようです。クライエントのなかには本物のアーティストもいることも徐々にわかってきます。とにかく胸を打つ絵や彫刻と個性に圧倒されました。

芸術に取り組む環境を整えること、人間としてクライエントに向き合い、病衣から普段着に、女性にはルージュを、病院からピクニックへ、と入院によって奪われていたものを戻していきます。人間が身の回りのものによって人間らしくいられるのだという当たり前のようなことを改めて実感しました。

ニーゼ・ダ・シルヴェイラは、1999年に94歳で亡くなっていますが、映画の最後の方に、生前ドキュメンタリーで撮った映像で登場してきました。ユーモアあふれる人柄で「時代のために闘う道は一万とある」と言った言葉が心に残りました。

 

 

 

さざめきと亡霊

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「ボルタンスキー展」を観に東京都庭園美術館に出かけてきました。クリスチャン・ボルタンスキーは、一貫して、歴史の中でろ過される記憶の蘇生やそのなかでの匿名性の生と死を表現しているフランスの現代美術家です。アニミタスーさざめく亡霊たち というタイトルで、亡霊たちのさざめきが展開されていました。

朝香宮廷である美術館に入って行くと、はじめに、どこからともなく女性や男性の声が飛んできて、その言葉が私自身と関連しているかのような感覚に襲われました。幻聴体験というのでしょうか。平日の比較的空いている時間に入館したせいか、幻聴体験は奇妙な感じに、私が次の部屋に移っても追ってきて、誰かが壁の向こうに存在しているかのような錯覚に陥りました。

宮廷をめぐっていくなかでは、おどろおどろしい揺れる影が映されている部屋、暗闇に心臓音がどっくどっくと流れる部屋があって、一人で訪れている人たちが部屋の真ん中で立ち止まり、部屋全体に流れている感覚や感情を味わっていました。立ち止まらざるを得ない何かの力があるかのようでもありました。また、大会場では、カーテンの間仕切りの上の方に女性や男性のまなざしが描かれていて、あちこちからまなざしが飛んでくるかのようでしたが、2人づれの女性客が黙って観ていられないのか、くちゃくちゃとおしゃべりをしていました。幻想的な場にそぐわない現実的な声が響く違和感と、そのそぐわない場に対しての不思議な現実感を感じました。

最後に、さざめきを表す2つの映像の部屋。ベンチが準備されていて、そこで一人見入っている若い男性がいました。ベンチが二人掛け一脚しか無い、一人か二人で味わうことを設定としているかのような部屋のなかで、大自然の映像に風鈴音がながれてきて、亡霊がとなりに居そうに感じる体験を提供していました。

こうした表現の奥底には、ナチス強制収容所の死の記憶があるのだそうですが、私は統合失調症者の体験世界を表しているようにも感じました。一人でぐっと集中して回ってみたことで、自分自身が、そうした体験に近づき非現実と現実の間を行き来したような時間をすごしました。

緯糸と経糸

今春のことです。

就職活動をしていた長男が、懇談会懇談会と言って出かけるので、どんななのかと聞くと、2年目の社員との懇談会だから、就職後の仕事について何でも聞けるからいいんだよ、などと言っていました。人事部門との、1対1とか1対2とか面接場面なら私にも思い浮かぶものの、若い者同士での懇談会と聞いて、就活も大学受験の学生相談コーナーのような方法が取り入れられるようになったのだ、と時代の移り変わりについて行けないような思いでした。

高校生が大学を選択するのにも、その大学がどんな研究や教育を行っているのか、目指しているのかということよりも、どんな学生生活が待っているのか、学生から見たカリキュラムとは、勉学とのバランスはどうか、人間関係はどうか、そういったことについての、学生同士の情報交換が大きな役目を持つようになってきたようです。少子化で経営難に陥りだした大学は、そうした受験生獲得方法が功を奏するなら取り入れざるを得ないでしょう。

けれども、高校生と大学生も、大学生と2年目社員も、ほとんど横のつながりです。受験生や就活生には、ずっと先に目指すものではなく、ほんの先に進む先輩の方が頼りになるのか、あるいは不透明な世の中なので、遠い未来目指してなどということは思いもつかないのかどうか。

緯糸のみでは、どんなに厚い重なりができても、上下に開けば、簡単に向こうが見渡せて容易に手なんかをずぶっと通り抜けさせることができるような織物しかできないと思うのですが…しっかりとした経糸が必要なのでしょう。

どうも、しっかりとした経糸として活躍するような、良きリーダーが存在しなくなった今この時代、緯糸の厚みと細い経糸で編まれた織物で未来に向かっていくことになるのでしょうか。

という私は経糸となる世代なのですが。現状維持がやっとのこの頃で、情けないです。

 

ぶきっちょ? に見る doing とbeing

15日付朝日新聞be betweenで、タイトル「あなたはぶきっちょですか?」の面白い企画がありました。1658人のアンケート結果を記事にしたものです。

「あなたはぶきっちょですか?」の質問に「はい」と回答した人62%、「いいえ」と回答した人38%。「はい」と回答した人の理由トップ3は、「世渡りが下手」「自己アピールが苦手」「人前で話すのが苦手」、一方で「いいえ」と回答した人の理由トップ3は、「てきぱきと作業をこなせる」「考え方に柔軟性がある」「物事を同時に進められる」でした。

ぶきっちょではない人は、さっそうとしたdoing 中心の人物像。ぶきっちょな人は、お人よしなbeing タイプという感じでしょうか。そして次の質問、ぶきっちょさんは「愛せる存在?」「困った存在?」に「愛せる存在」と回答した人は57%でした。

アンケート結果の横には、ぶきっちょさんアンケートについて、日本人らしい謙遜でぶきっちょさんが62%と半数を超えたのではないか?本音ではぶきっちょさんを「困った存在」と思っている人はもっと多いのではないか?日本の文化的規範が働いてあらさがしをせず長所を積極的に認めるべきという寛大効果がバイアスとなっているのでは、と心理カウンセラーのコメントが添えられていました。人手不足、高齢化、格差社会の世の中、ぶきっちょさんを抱えていくのは、本当は手にあまるけれど、建前ではそうも言えない、ということなのでしょうか。アンケート結果の読み取りの複雑さに、ちょっとため息がでます。

ところで、この記事は、beの連載漫画「部きっ長さんのぶきっちょだけどやってみた」との連携企画でした。この漫画、一度も読んだことがなかったので、さっそくめくって見たところ、この日は「残業の巻」というお題でした。まず塩川さんという女性社員の帰りがけに、部きっ長さんが書類の整理を頼みにきます。塩川さんは、えっ??と一瞬ひるみますが、デート予定?の彼に「残業」と電話で知らせてから、ババババ!!と一挙に書類を片づけました。ところが終わったころに、またもや部きっ長さんが、書類を持ってきます。塩川さんは、ダダダダダ!とさらなる速さで片付けてしまいます。ーこの勢い、かなりスゴイ!!!ー そして、塩川さんは、ようやく仕事から解放されて、彼の待つレストランに。

漫画のオチですが、塩川さん、「遅くなってしまったので、急いで食べましょうか」とズババババ!!!と虚をつかれる彼を前に、物も言わずに狂ったように一挙に食べてしまいます。そんな塩川さんに言葉を失う彼…。

ぶきっちょさんの存在の隣には、それを支える塩川さんがいるのですよね。塩川さんは、doingタイプ。でも、塩川さんに頼りすぎると、塩川さんが狂ってしまいます。職業柄、塩川さんの行動に看護師の影をみて、もんもんとする思いになりました。とりとめもないですが。

 

 

 

わくわくする絵画展

明治末から大正時代の芸術界激動の時代を裏から支えた、北山清太郎の動きを追いながら、当時の画家、芸術家が、西洋美術にどのように影響され、国内で活動し交流してきたのか、美術作品を通して見せる絵画展、「動き出す!絵画展 ペール北山の夢」に行ってきました。現在は東京ステーションギャラリーで開催されていますが、この後、北山氏の故郷である和歌山、そして下関と巡回するようです。

北山氏は、1888年和歌山生まれで、20世紀初頭の水彩画ブームに乗って絵を書きはじめ、専門雑誌への投稿やグループを作って大阪や東京で活動するようになりました。徐々に、美術雑誌の編集で洋画界をリードするようになり、周囲の画家たちの展覧会のプロデュースも手がけメディアからも注目されるようになっていきます。パリで画家たちを助けたペール・タンギーのようだと「ペール北山」と呼ばれるようになりました。

北山氏が手掛けた雑誌「現代の美術」などの展示と、その時期その時期のさまざまな絵画の展示が、こじんまりしたギャラリーを活気づけ、私が生まれる前の時代であるのに、当時の高揚感が伝わってくるようでした。

心に残った絵画は、青空に黄色に紅葉したまっすぐな木々がスーッと描かれている斎藤豊作の「秋の色」:大正1年、岸田劉生の弟子である椿貞夫作「自画像」、それから、萬鉄五郎作「雲のある自画像」でした。とくに萬氏の絵は、絵画展のちらしを見た時からずっと気になっていたのですが、会場では真っ黒の壁紙の真ん中に一枚際立つように展示されていて、髪の紫や表情に浮き出る言葉にならないうつうつとこみあげてくるような色、頭上の赤い雲に足が止まり、見入ってしまいました。絵葉書も購入してしまいました。この絵はムンクに影響されていると説明がされていて、なるほどと思いましたが、この一枚は、直接見ることができてとくによかったと思います。

それぞれの絵画には、印象派、ポスト印象派キュービズムなど、何に具体的に影響されていたのか、そして北山氏を中心に画家たちがどのように交流し、互いに影響を受けていたのかもわかるように説明されていて、時代のダイナミクスに触れることもできます。

北山氏はその後美術界を離れ、28歳には輸入アニメーションの影響で、自己流アニメーション制作をはじめるようになって、日本初のアニメーションスタジオ:北山製作所を設立します。裏方として動きつつも、絵を書くことは続け、さらには動く絵画を目指すことになったのです。彼の作である、浦島太郎が上映されていて、コミカルなアニメーションを楽しみました。どうやったら北山氏のような人間が育っていくのだろうと不思議でしたが、細かく書いたものがなくて残念です。

さまざまな絵画は、全国各地の美術館から集めて展示されていて、企画した人々の意気込みも感じられました。東京ステーションギャラリーでの展示は11月6日(日)までです。

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